国語(現代文)の問題に正解はあります:「論理」と”常識”

読者の皆様の中にも上のようなことを思った方はいますか?

私は国語が大好きだったのでそういう気持ちはよくわからないのですが(笑)、小中高の友人であったり、塾でアルバイトしていた時の教え子などから上のような趣旨の言葉を数多く耳にしていました。

それに対しては、おそらく次のような回答がされることがほとんどでしょう。

これは私もある一面では正しいと思いますが、これだけでは説明できない部分があると最近気づきました。

今回は、現代思想家ハーバーマスの理論をお借りして、「国語(現代文)の問題の正解は1つに決められるのか?」という問題に取り組みたいと思います。

先に答えを端的に述べておくと、決められます

というより、現実には決まっています。

そして、その決める根拠となっているのは、「作者の気持ち」ではなく、平たく言えば「現代の日本社会の気持ち」です。

以下で具体的に説明していきます。


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国語の問題ってどんなんだったっけ?

「そもそも、国語の読解問題ってどんなんだったっけ?」という方もいらっしゃるかと思います。そうした方にも問題の雰囲気を思い出していただきつつ議論の前提を揃えるため、例題を作ってみました。

評論文でも随筆でも小説でもいいのですが、答えが一つに決まることに対してとくに納得のいかない方が多いであろう小説の問題を本日は扱うことにします。

以下は、ミヒャエル・エンデの『モモ』からの引用で、「フージー氏」という名前の床屋さんのお話です。序盤からの切り抜きなので重大なネタバレは含んでいないと思います(笑)

ある日のこと、フージー氏は店の入り口に立って、お客を待っていました……いやな灰色の日です。フージー氏の気持ちも、灰色でした。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」フージー氏は考えました。「はさみのと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。おれはいったい生きていてなんになった? 死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、ひとにわすれられてしまうんだ。」

ほんとうは、フージー氏は、べつに(管理人注:お客さんとの)おしゃべりがきらいではありませんでした……はさみをチョキチョキやるのや、せっけんのあわをたてるのだって、いやなわけではありません。仕事はけっこうたのしかったし、うでに自信もありました……けれどそんなフージー氏にも、何もかもつまらなく思える時があります。そういうことは、だれにでもあるのです。

「おれは人生をあやまった。」フージー氏はかんがえました。「おれはなにものになれた? たかがけちな床屋じゃないか? おれだって、もしもちゃんとしたくらしができてたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!」

でも、このちゃんとしたくらしというのがどういうものかは、フージー氏にははっきりしていませんでした。なんとなく立派そうな生活、贅沢な生活……をばくぜんと思いえがいていたにすぎません。

出典:ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳『モモ』岩波少年文庫, 2016年, pp.84-85

それでは、問題です。

問い:下線部「いまとは全然違う人間になってたろうになあ」とありますが、フージー氏の理想に近い人生は以下のうちどれでしょうか?

ア. 介護士(年収300万円)になって高齢者の世話をし、笑顔で余生を送れるようサポートする。

イ. 保育士(年収300万)になって子どもに遊びの中で成長してもらうとともに親の負担を軽減する。

ウ. パン屋さん(年収300万円)になって地域の人たちに喜んでもらう。

エ. 大統領(年収4000万円)になってインフラを整備して国の発展に貢献した後、辞任前に自分の銅像を建てて、後世にも自分の偉業が残るようにする。

極端に難易度の低い問題にしましたが、答えは「エ」です

介護士、保育士、パン屋さんも全て社会性のある尊い職業ですが、いずれも「無名ながら身近な人々にしっかり貢献している」タイプの人々です。

そうした意味では、フージー氏の現在の仕事である床屋さんとあまり変わりません。

「死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、ひとにわすれられてしまうんだ」とある通り、後世の人々にも讃えられたいという思いがあるので、ここでは大統領という世間的に見れば”上”と思われている地位につき、仕事をしたのちに「銅像を建てて」自分の名をこの世界に残すのが、(少なくともこの部分だけを読めば)彼の望む人生に最も近いと考えられます。

このように簡単な例題を出して、「ほら、国語の問題はこうやって本文に落ちている根拠と論理的思考力によって解くものであり、決して作者の気持ちを読むことが求められているわけではないんだよ」と、解説する参考書や教員の方も多いでしょう。

しかし、このような解説に対して、生徒からは次のような反論が提出される可能性があります。

・年収4000万円ももらって贅沢してると逆に人々から嫌われるのではないか?

・インフラ整備により環境破壊が進んで環境保護活動家などから嫌われるなどもありうるし、政策が成功したからといって必ずしも国民からの人気が上がるとは限らないのでは?

・銅像を建てて称えられるのはその人が生前に人気だった場合であって、銅像を建てたからといって栄誉を手に入れることができるとは限らないのでは?

私は小学生から高校生まで様々な学年の子供達に国語を教えていた経験があるので言えるのですが、こうした反論をもらうのはざらです。

このような(厳密に考えると筋が通っている)深読みに対して「本文から読み取れる以上のことは一切考えてはいけないのですよ」などと説くと、それ以上論理的な反駁は返ってこないのですが、それでも、あまり腑に落ちた感じの表情は見せてくれません。

「回答者の一部に納得のいかない模範回答」が許されているのは、他の教科にはない国語(現代文読解)の特徴でしょう。

なぜ、このようなことが起きているのでしょうか?

この問題について考えるために、次の節で西洋思想を一つ紹介します。

ハーバーマス「妥当性」

今回登場していただくのは、存命中のドイツ人哲学者ユルゲン・ハーバーマス氏の思想です!

最近の記事(堀江貴文氏「仕事しなくていい」を現代哲学の観点から分析する)でも扱ったのでご存知の方もいるかとは思いますが、未読の方もいらっしゃると思いますのでもう一度解説させていただきます(以下、コピペなので同記事を読んでくださった方は読み飛ばしてくださって構いません)。

——–ハーバーマスの思想解説(上記事からの引用)——–

他の哲学者同様、彼の思想も一言で表せるようなものではありません。ですが、あえて一言で表すのであれば、彼の哲学のポイントは以下の文に表されると思います(あくまで私個人の見解です)。

「何を”正しい”とするかは、社会に属する人々の話し合いによって決めよう」

この、「話し合い」と表現した部分は、ハーバーマスにおいては「コミュニケーション的行為」(独:kommunikatives Handeln)と呼ばれます。そして、この「コミュニケーション的行為」においては、話してそれぞれに対して以下の3つの「妥当性要求」がなされます(専門用語だらけで申し訳ありませんが、中身はすごく簡単なのでお付き合いください)。

<コミュニケーション的行為における3つの妥当性要求>

真理性要求(Wahrheitsanspruch)

ある発言が、客観的事実に整合しているか。

正当性要求(Richtigkeitsanspruch)

ある発言が、その社会が共有している価値観においてに正しいか。

誠実性要求(Wahrhaftigkeitsanspruch)

ある発言が正しいと話し手自身が信じているか。

重要なのは、とくに上の2つは何か普遍的に決まっているものがあるのではなく、コミュニケーションの参加者同士の「了解」によって認められるということです。

例えば、「地球は丸い」という発言は、数百年前(コロンブス以前かな)においては真理とは認められなかった(=真理性要求を満足できなかった)一方で、現代においては問題なく真理とされます。

同じように、「悪ガキには体罰があってしかるべき」という主張は、昭和の価値観では問題なかったかもしれませんが、最近では悪いこととされつつある(=正当性要求を満足できなくなっている)のです。

——–(引用終わり)——–

この記事では、上の2つ、真理性要求と正当性要求の理論を用います。真理(「AはBである」論や「AならばBである」など)と、価値観(あるいは「AはBであるべき論」「AよりBの方がよい」など)の問題です。

では、準備が整ったところで、国語の問題の話に移ります。

国語の問題で必要なのは「論理」と”常識”

現代文の問題–評論文でも小説でもなんでも–を解くにあたって必要なのは、論理的思考力と”常識“だと思います。

ここでいう”常識”とは、現在世の中の人が(ハーバーマス風に言えば)「妥当」だと思っていることを指します。

つまり、「その社会が”正しい”と思っているものや共有している価値観に適合した上で、それを使って論理的に問題が解けるか」という能力が試されているのです。

先ほどの問題で「エ」が正解であると決定するためには、少なくとも次のような”常識”が必要です。

「エ」が正解であるとするために必要な”常識”(例示)

(1) 一般的に、大統領は介護士、保育士、パン屋さんよりも社会的地位が高いと思われている。

(2) 銅像を残すことでその人の偉業を讃えるという人間社会の風習がある。

(3) 年収は、現代社会において名声に影響を与えるものとしては重要なファクターである。

このほかにも無数の”常識”が隠されています。

そして、こうした”常識”は、ハーバーマス的に捉えれば「その社会に生きている人々のコミュニーケーション的行為」によって規定されるものです。

つまり、古今東西で絶対的に正しいものではなく、その社会を生きている人同士の対話によって「了解」されているものだということです。

例えば、上記の問題を、政治家のことがものすごく嫌いで、政治家の社会的地位が高いという価値観に同調できない人が解いたとします。

そうすると、彼ないし彼女は「エ」という解答を導けないかもしれません。

それでも、模範解答は「エ」であることには変わりません。

なぜならば、現代社会において、「大統領の社会的地位が床屋より高い」というおおよその意見の一致があるからです。

こうした意見の一致(=”常識”)を前提にして国語の問題は構成されます。

国語の問題において要求されているのは、”常識”に対する理解と、それらの知識を組み合わせて活用する論理的思考力の両方なのです

補足:厳密には、例で出している政治家の地位に関しては「システム」というハーバーマス哲学における別の概念を持ち出して説明するのが適切なのですが、それを説明するには文字数を倍にしなければなりません。社会における価値観が人々のコミュニケーションによって維持されたり更新されるという部分さえ説明できていれば本記事の議論は進められるので、ここでは説明を割愛します。

前提が教科書に載っていない唯一の教科

「現代文読解問題では『常識』を前提としてそこから論理的に答えを導くことを求められている」というのが前節の要点でした。

ところで、「前提から論理的に答えを導けますか?」という要求が行われているのは、実は国語以外の教科でも同じです。

例えば、数学であれば、「対頂角は等しい」という前提を教科書で覚えたのち、「ここの角度は何度ですか?」という問題を、その前提と一定の論理規則に従って解くことになります。

理科であれば、「気体1molは22.4L」などの前提を習ったのち、質量や体積などの問題をその前提と論理規則に従って解くことになるでしょう。

社会科の知識問題などにおいては少し違っていて、論理的思考力による導出というよりも暗記した前提そのもののアウトプットが求められます。

では、ここで国語の問題について考えてみましょう。

「銅像を残すことでその人の偉業を讃えるという人間社会の風習がある」という前提は、国語の教科書に載っていません。子供達はどこからそれを知りうるのでしょうか?

……これが、「国語の点数を上げるためには本を読め」というアドバイスがなされる所以です。

本を読むなり、あるいはアメリカに旅行に行くなりして、合衆国の歴代大統領の像が現実に存在していることを知っていれば、「エ」の選択肢を読んだ時にそのことを想起できるかもしれません。

ですが、偉い人の銅像を作るという風習を全く知らない子どもが上の問題に取り組もうとしても、いまいちピンとこない可能性が低くないのです。

国語ができない子供たちをみていると、結構語彙を含めて”常識”的観念が足りていない傾向があります。

論理的思考力うんぬん以前の問題なのです(何度もいいますが、”常識”は可変的なものなので、非”常識”であることそれ自体に悪いニュアンスを込めているつもりはありません)。

ですから、「国語は論理的思考力を問う問題であり、論理的思考力のトレーニングのみをすればいい」というのは、さまざまな人生経験や読書経験を積んできた人にのみ通用する提言であって、問題を解くにあたって前提とされる”常識”は、足りないのであれば意識して身につけなければならないのです。

おわりに

今回は、「国語(現代文)の問題の正解はあります」というテーマでお話を進めてきました!

そして、その正解は「「論理」と現代日本社会の”常識”で決まっている」というのがこの記事のポイントであり、

さらに踏み込んで、

国語には論理的思考力と常識(と、現在の社会でされているもの)の暗記が必要であり、後者は教科書に載っていないので積極的に人生体験を積んだり読書をして身につけるしかない」といえます。

一つの考え方として、現代文が問題として成り立つのかモヤモヤしている方の参考になれば幸いです!


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