和歌を詠むのに自然は必要?:現代人が和歌を詠まない理由

いきなりですが、みなさんの中に和歌を実際に自分で作ったことがある方はいますか?

たぶん、あんまりいないのではないかと思います。かく言う私もありません。加えて、和歌を作ったことがある方を見たこともありません。

今でも歌人として活躍されている方はいるため、和歌が完全に死んだ文化というわけではないのですが、政治家、お坊さん、庶民、さまざまな身分の人々が歌を詠んでいた古代に比べれば、詠む人の割合が減っているのは間違いないと思います。

今回は、「なぜ現代人は和歌を詠まないのか?」ということについて、私なりの仮説を立ててみたいと思います。

現代人が和歌を詠まないのはなぜ?「自然が減ったから」では不十分

……そもそも王朝の生活は、移ろいゆく自然や植物とともに心のしみじみとした一体感から生まれています。四季折々の季節の草花、移りゆく季節のなかの自然のゆらぎ、それらを言葉にして、伝えたのが和歌です。

出典: 川村裕子(著)『王朝生活の基礎知識: 古典のなかの女性たち』角川選書、2005年、pp.91

上記はgoogle booksで適当に検索して引っ張ってきた文章ですが、このように、「和歌」は「自然」と密接に結びつけて語られることが多いと思います。

この説明の仕方は間違ってはいなくて、実際に、古代の人々は自然物から着想を得て自分の心情を和歌で表していました。

 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ

ー大伴坂上郎女(万葉集)
訳↓

夏の野の繁みに
ひっそりと咲いている 姫百合のように
あなたに知られない恋は 苦しいものです

出典:松岡 文, まつした ゆうり, 森 花絵(著), 村田 右富実 (監修) 阪上 望 (その他)『よみたい万葉集』西日本出版社、2015年、pp.74

姫百合を見て、「あ〜あたいの恋心もこんな風にひっそりと咲いているだけなんだな〜」と。

こんな風に、自然を見て、自分の気持ちをそれにたとえて表す、これが和歌の典型的なパターンの一つかと思います。したがって、「自然が和歌の必須条件」であり、現代人は自然に触れていないから和歌を詠まない、という説明も可能ではあるでしょう。

でもでも、ちょっと考えてみたらこの「自然が和歌の必須条件」説では説明不足です。どうして人工物ではなくて自然じゃなきゃダメなんでしょうか?

人工物でも、和歌を読める可能性はあると思うんですよ。試しにちょっと即興で和歌を詠んでみます(古語の運用能力はないので、口語で詠ませていただきます)。

 自動ドア 近づくだけで 開くのに あなたの心 なぜそう固い 

ーbitwin’ (学問のカクテル)

この和歌のクオリティーはさておき笑、こんな風に、人工物でも十分和歌の題材にはなりうるのです。

したがって、「自然に触れていない」だけでは、和歌が詠めないことの言い訳にはならないことがおわかりいただけると思います。

では、いったいなぜ、現代人は和歌を詠まないのでしょうか?実は「歴史的にこういう経緯があって…」みたいなお話はググれば出てくるはずですので、ここではもっと抽象的に考えてみたいと思います(ググっても出てこない知を生み出すのが当ブログの基本方針です)。

この問いに対して私は2つの仮説を立てました。

仮説その1:意識

まずは面白くない仮説の方から。同語反復(tautology)にはなってしまいますが「和歌を詠もうという意識がないから和歌を詠まない」という回答です。

昔の人は、和歌で手紙を交わす、宴会の席で和歌を詠む、といった形で和歌を詠む機会があふれていたので、常に和歌のことが頭の片隅にあったのだと思います。ずっと和歌のネタを探しているから、何かを見たときに「あ、これで和歌詠めるンゴ!」という風に思いつくことができるのです。

ブログもそうなのですが、創作のネタを思いつくのは「何かを表現しよう」と常に考えているからだと思います。私もブログを始めてから、常にネタを探して生活しています。本を読んでいるときはもちろんのこと、人と話しているとき、お笑いを見ているとき、歯医者で治療してもらっているとき……常に、「今やっていることから何か記事を書けないか」と常に頭の片隅で考えています。このように常にブログのことを考えているため、一見どうでもよさそうな事物に触れた時に「あ、これで書ける!」というインスピレーションを得て、記事を書き始めることも少なくありません。

和歌もおそらく同じだと思います。昔は和歌を詠むのが当たり前だったのが、日常で和歌を詠む慣習が衰退すると、ネタ探しのアンテナを張らなくなって、日常で触れるものから「あ、この気持ちを和歌にしたい!」と発想することがなくなったのではないでしょうか。

仮説その2:目的性

2番目は、どちらかというと「なぜ人工物では和歌が詠めなくて自然では詠めるのか」という問いに対する直接的な答えになります。すなわち、「身の回りの多くの人工物は、その使用目的がはっきりしているから」という仮説です。

例えば、先ほどの私の和歌で使用しました自動ドア。これは、完全に「建物に入る」という明確な目的をもってそこに存在しているものです。したがって、自動ドアを見ても我々は無意識に「これは建物に入るためにここにあるもので、それ以上でもそれ以下でもない」と思ってしまい、自動ドアからその目的以外の何かを感じようとはしないのではないかと考えられます。

一方で、その上の和歌で用いられていた姫百合なんて、詠み手にとってなんの物質的価値もないのです。なんのためでもなくただそこに存在する姫百合を見ているから、その中に比喩として用いる可能性を見出して、自分の心情を表現しようという意識が沸くのではないかと思います。

私たちが普段触れている人工物 — 例えば椅子、PC、スマホ、カバン、ギター、なんでも — その多くははっきりとした目的を持っています。おそらく、和歌を詠むかどうかの違いは、「自然に触れているか否か」ではなく、「目的や有用性のないものに触れているかどうか」の違いにあるのではないでしょうか。花、鳥、虫……自分の生活になくても別に困らないものにたくさん触れていたから、有用性以外の観点から事物を観察し、それを比喩に活用することができたのではないかと思います。

おわりに

今回は、「なぜ現代人は和歌を詠まないのか」という問いに対して、「詠もうという意識がないから」「身の回りに使用目的のはっきりしているものがあふれているから」という2つの仮説を提示しました。

和歌の本を読んでいると、「昔の人の感性すごーい」と思ってしまいますが、我々の感性が昔の人の感性に比べて劣っているのではなく、慣習・環境という外的な要因によって、持っている感性が発揮しにくくなってしまっただけなのかもしれませんね。

本の紹介

和歌関連でおすすめの本を貼っておきます。

万葉集からいくつかの優れた歌を抜粋し、現代人にわかりやすく丁寧な解説を加えた本です。私は普段あまり和歌に触れないのですが、それでもかなり楽しんで読むことができました。興味のある方はどうぞ!


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