民主主義が唯一最良の答え?:フクヤマ『歴史の終わり』

こんにちは!今日は一昨日の記事(いじめっこを止めるには?ジョセフ・ナイ『ソフト・パワー』)に続き、現代政治学の文献を購読していきたいと思います!今回紹介するのはアメリカの政治学者フランシス・フクヤマ氏(1952-)の『歴史の終わり』です!

歴史は終わった?

同書で展開されるフクヤマの主張を一言で要約すると、「人類発展の歴史は終わった」ということです。

え?じゃあもうこれ以上世界史の教科書は分厚くならないってこと?もう歴史として記録するべき戦争や政変その他事件は起こらないの?

もちろん、そういうことではありません。ここでいう「歴史」とは、実質的には「社会制度の変遷」を意味します(厳密に言うと、もうちょっと哲学的な概念を表すのですが、議論にここでは細かい定義は省略します)。

フクヤマの考え方は、18~19世紀のドイツ人哲学者ヘーゲル(1770-1831)の思想に立脚しています。

ヘーゲルは、人類発展の「歴史」に終点があると考えました。

人間が、原始時代からまず家族を作り、共同体を作り、国ができて、封建制になり、絶対王政…と紆余曲折を経ながら様々な政治体制を築いてきたことは、周知の通りです。

ヘーゲルは、このような政治体制の変遷は無限に続くものではなく、最良の状態にたどり着いた時に終わるものであること主張します。そして、アメリカ独立革命やフランス革命によって、リベラルな民主主義国家(全国民の自由と平等を原理とし、かつ主権が国民にある社会。以下、便宜上「民主主義」と表記します)がベストな人間社会として立ち現れ、「歴史が終わった」と主張しました。

ところが、ヘーゲルに反対するマルクスが唱えた共産主義や、あるいは20世紀ナチスドイツにみられた全体主義の挑戦を受け、民主主義の完全勝利は疑わしいものとなります。ソ連やその周辺の国家は、冷戦期前半にはうまいこと政治的経済的安定性をたもっているように見え、本当に民主主義国家が唯一の答えなのかは一時期怪しくなっていました。

その後、第二次世界大戦におけるファシズムの敗北、冷戦末期における共産主義の崩壊により、民主主義が唯一最良の政治体制であることが証明され、ヘーゲルの予言が実現された、というのがフクヤマの主張です。さらに彼はこの見解に基づき、民主主義が現在非民主的な政治体制を取っている国家(イスラム諸国など)もいずれすべて欧米型の民主主義国家になるだろう、と仮説を提示しました。

歴史とは「認知」を求める「気概」の闘争

同書の内容をなるべく正確に理解していただくために、フクヤマの理論の土台であるヘーゲルの思想を少し解説します。ヘーゲルは、人間社会の様相は「認知への闘争」によって動いていると考えました。

「認知への闘争」というのは、平たくいうと、「他人に認められようと頑張ること」です。その「認められる」とは何かというと、「他人より優れた、あるいは他人と対等な、単なるものや動物ではない一人の人間として」認められるということです。そして、この認知を求めようとする、すなわち人間の本性は、同書では「気概」と呼ばれます(「認知」も「気概」も正確にはもっと広い概念を含む言葉なのですが、本記事を組み立てるには不要なので割愛します。ちなみに「気概」という用語法はプラトンによります)。

「気概」は、生物の本能としての「欲望」とは異なります。

例えば、「おいしいランチを食べる」という行為には、生物的本能である「欲望」と、認知を求める「気概」の両方が関係しています。

たしかに、空腹を満たし、生命維持を図りたい、あるいはそれに上乗せして舌触りの良いものを食べて快感を得たい、というのは、「欲望」です。ですが、それ以上に、例えばおいしいランチを食べている様子をinstargramにアップして、勝ち組であると認められたい、という願望は、同書の議論では「気概」に分類されます。
このように、単なる生存本能にとっては不合理な、他人と対等な、あるいは他人より優れた人間として認められたいという「気概」が、人間社会の変遷を作り出してきたというのが、ヘーゲルおよびフクヤマの主張です。

ヘーゲルが描く「歴史」

では、ヘーゲルが唱えた人間社会変遷のストーリーを簡単に図説してみましょう。下の図から出発します。

まずは、階級制度のなかった時代の「最初の人間」社会です。ここでは、人間は他の生物と同じように生存や種の保存を求めた食事や生殖などの「欲望」に従った行動をとります。しかし一方で、人間には「気概」があるので、生命や種の保存からすれば不合理なある行動をとります。それは、「決闘」です。

「決闘」の勝敗がつくと、敗者は殺されずに済む代わりに「労働」の苦役を負わされ、ここに「主人」と「奴隷」からなる、最初の階級が生まれます(下図)。


さて、この時点では、「主人」「奴隷」両方とも不幸です。まず、「奴隷」は、「認知」を求めて戦う、自分の存在や強さを認めてもらおうとすることをやめてしまっているので、「気概」を捨ててしまった状態、極端に言えば人間を捨ててしまった状態になっています。彼が人間として認められることはありません。

では、戦いに勝った「主人」は、自分の強さを証明できたから「認知」を実現することができているのか?否、主人も「認知」されることはありません。なぜならば、「主人」を人間として認めてくれる人がいないからです。自分が倒した「奴隷」は人間をやめてしまっているので、彼を人間だと認めてくれる他「人」は存在しないのです。

そうして、「認知」を求めた「主人」はまた別の「主人」と闘争を繰り広げます(下図)。

そして、もっと大きな階級を作り、やがて絶対王政に至ります(下図)。大雑把に「国王」「貴族」「市民」の階級に分かれますが、この時点でも、どの階級の人も誰にも認めてもらえないという状態は続きます。

しかし、ここで転機が訪れます。「主人」から強制されて「労働」を行っていた「市民」は、その「労働」の中で能力を磨き、経済力を手に入れ、自信をつけて、「気概」を取り戻していくのです(下図)。

そして、こうして力をつけた「市民」が、再び「認知」を求めて「市民革命」を起こし、階級制度を打ち破ります(下図)。

結果としてできるのが、全員が全員を人間として認め合う民主主義国家です(下図)。この時点で、人間の「認知への闘争」は終わりを迎えます。

以上が、ヘーゲルの唱えた「歴史」です。実際にはフランス革命による民主主義国家の登場ののち、共産主義の挑戦を受けたためまだ「歴史」は終わりませんでした。しかし、冷戦終結による共産主義の敗北のため、結果的にはヘーゲルの予言通り民主主義が最後の社会制度であることが証明されたというのがフクヤマの主張です。

現実には、「歴史」がなかなか終わらない件

さて、この『歴史の終わり』ですが、発表されて以来多くの論争を巻き起こしました。とりわけ多かったのは、ヨーロッパと違って民主主義がなじまない文化圏もありそうという批判です。民主主義が安定した社会制度として確立できるのはヨーロッパの文化と相性がいいからであって、例えば未だに宗教の政治的影響が強いイスラームには民主主義になじまないだろうということも想定できます。このような視点から、「いずれどの国も民主主義へと向かっていくだろう」というフクヤマの仮説には多くの反対意見が出ました。今度紹介しようと考えているサミュエル・ハンチントン氏の『文明の衝突』はその代表例です。

そして、本書が出版された1992年からしばらくたって2000年代に入ると、民主化したにもかかわらず権威主義に戻ったり、なかなか民主政治が機能しない国が多くみられることにより、本書は事実レベルでも批判されることになります。

では、ヘーゲルやフクヤマの「認知への闘争」として社会制度の変遷をとらえる視点は、不適切だったのでしょうか?この問題への手がかりを提示するため、民主主義がなかなか根付かない国の一つ、ロシアについて専門家の見解を紹介し、今日は終わりにします。

ロシアの権威主義とロシア人の「気概」

アメリカに拠点を置くNGOフリーダムハウスは、世界の民主化度合いを「自由」「部分的自由」「自由でない」の三段階で評価しています。ロシアは冷戦終結後に民主化してから2004年までは「部分的自由」と評価されていたものの、翌年から「自由でない」との評価を下され、現在に至るまでそのままです(Russia | Freedom in the World 2018, freedom house, 2018年3月15日最終閲覧 )。

ロシアではなぜ民主主義が根付かないのか?説得的な説明を1つ見つけたので紹介します。

こちらの本です。

同書は、読売新聞社の記者森千春氏が2016年時点での国際情勢について解説した本ですが、その中で、ロシアではなぜ民主主義が根付かない(権威主義にとどまる)のかということについて、モスクワ大学講師の佐藤雄亮氏の見解が掲載されています。以下、引用です。

ロシア人の世界観というか世界感覚、価値観からはじめますと、欧米流の民主主義というのは、ロシア人には根本的にピンとこないところがあると思われます・・・ロシア人というのは、個人のモラル、生活から、国家の政治、外交まで律してくれる、唯一絶対のイデー(管理人注:理念)をどうしても求めたがるのです・・・ところが、連邦崩壊後は、そんなイデーがありませんから、ロシア人は心理的にとても不安定なのです。

出典:森千春『ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点 ベルリン壁からメキシコの壁へ』Discover、pp.159

ロシア人の「価値観」からして、自分を支配してくれる絶対的なイデーがないとロシア人は「心理的にとても不安定」になるというのが佐藤氏の見解です。彼は続けて、過去のツァーリ(皇帝)がそうしたように、現在支配者の立場にいるプーチンもまた、民衆を満足させつつ権威主義的支配を行っていると分析します。

この例から、必ずしもヘーゲルやフクヤマのいうように、市民が「認知」を求めて階級制度を打ち破るということはなく、それぞれの民族に根付く伝統的な文化や価値観によっては、民主主義が求められない例もある、ということがわかります。

では、ロシア人には、他人に対等な人間として認めてもらいたいと思う「気概」はないのでしょうか?人間とは「欲望」のほかに「気概」を原動力として行動する生き物であるというヘーゲル政治哲学の大前提はそもそも間違っていたのでしょうか。

それに対するヒントとしては、佐藤氏の次の言葉が参考になります。

もしそうした絶対的イデーがないのなら、その追求、実現に人生を賭けることができないならば、あとはもうどうでもいい……。ロシア人は、こういう、すべてかゼロかという感覚の人たちなのです。だから、普段は酔いどれ、なまけものですが、何かのきっかけで豹変することがある。ナポレオンもヒトラーも、普段の酔いどれぶりをみて、なめてかかったのですね。酔いどれたちの前に、いきなり母国防衛という絶対的な目的が現れて、彼らは化けたのです。

出典:同上、pp.159

この佐藤氏の見解にのっとってロシア人、ロシアにおける政治体制を捉えると、ロシア人には「気概」は無いのではなく、それが国内の主従関係の破壊に向かわないだけであるということになります。母国防衛などの確固たる目的が現れた時には、たとえそれが自分個人の生存への「欲望」に反する形になったとしても、闘争を行って「認知」を求めることになりますね。

まとめと補足

以上の議論をまとめると、ヘーゲルやフクヤマの言うように「気概」は確かに「欲望」とはまた違った形で人間社会を動かす原動力にはなるのだけれども、人々の「気概」が必ずしも一国の政治体制を民主主義に落ち着けるとは言えない、ということになるでしょう。

ちなみに、フクヤマの見解によれば、「気概」あるいは「認知への闘争」、要するに「優れた、あるいは他人と対等な人間として認められたい」という人間の本性は、プラトンからヘーゲルに至る数多くの哲学者によって、言葉を変えながら表現されてきた考え方でした。当ブログで紹介したところでいうと、金持ちの「虚栄心」が経済成長を促し貧困を解消する、というアダム・スミスの理論も、本質的には同様の前提に基づいています(「貧困を撲滅する『虚栄心』:アダム・スミスの理論をバレンタイン・デーの格差社会で例えてみる」参照)。

おわりに

過去一の長文になっていしまいました(笑)。基盤となっているヘーゲル哲学が複雑すぎて、誤りのないようにシンプルに書くのがすごく難しかったです(もっというと理解する段階から)

とにかく、『歴史の終わり』は、仮説の妥当性はさておき、プラトンからヘーゲルに至るまでの西洋哲学に一貫して流れてきた「気概」という概念をもって、過去数百年の歴史を考察した壮大な学術文献です。思想史と事実関係を相互に関連付けながら一気に学べる良書ですので、気になる方はぜひ!

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