堀江貴文氏「仕事しなくていい」を現代哲学の観点から分析する

突然ですが、上の命題に反論してみてください。

普通”反論”と言われれば、思いつくのは例えば次のような返しでしょう。

これが、”論理的”な反論と通常我々が呼んでいるものです。

一方で、実際の日常生活では次のような”非論理的”な反論も見られます。

こうしたレスポンスは”感情論”と呼ばれることもあり、論理的な対話を求める人には嫌われがちな反応です。それでも、こうした議論もまた社会秩序を維持するのに全く無意味なわけではありません。

あるいは、次のような反論もあるでしょう。

このように、何か提出された命題に反対する方法は、必ずしも我々が論理的な反論と呼ぶものだけではないのです。

今回は、我々が公的・私的様々な場で行う対話の仕組みについて、実業家のホリエモンこと堀江貴文氏の発言を例にしつつ、現代思想家ハーバーマスの力を借りてじっくり考えてみましょう〜

堀江貴文氏の「働かなくても生きていける」説

実業家の堀江貴文さんをご存知でしょうか?

世の中の様々な問題に対しラディカルな意見を投げかけることで有名な彼ですが、彼がよく口にする言葉に「働かなくても生きていける」というものがあります。

実際に最近の記事から彼自身の言葉を引用しましょう。以下は、堀江さん(以下「堀江」)BUSINESS INSIDER JAPAN統括編集長の浜田敬子さん(以下「浜田」)、サイボウズ代表の青野慶久さん(以下「青野」)によるパネルディスカッションからの引用です。

太字が今回検討したい中心命題、下線部はそれに対する反論になります。

※見やすくするために体裁を整えています。文の内容は変更していません。

浜田:いらない人たち(管理人注:文脈より、「社会の役に立つ仕事ができていない人々」といった意味合い)は、どうすればいいのでしょうか。

堀江遊べばいいんじゃないですか? アリとキリギリスだったら、キリギリスになればいい。

浜田:遊んでいるだけじゃ、食べていけませんよね。

堀江:そう、こういう話をすると、必ず「食っていくこと」について聞かれるんですよ。ちょっと攻撃しますけど、「食っていく」ってなんですか? 定義を教えてください。

浜田:お給料が入らないと、生活費がないから、食費も家賃も払えない。つまり生活ができない、ということです。

堀江:本当に生活できませんか?

浜田:入ってくるものがなければ、支払えないじゃないですか。

堀江:支払わなければいいじゃないですか。恵んでもらえばいい。

浜田:それって、実際にどれだけの人が可能かという話もありませんか?

堀江:あなたは別に社会全体のことなんて考えなくていいんですよ。自分が恵んでもらえるかどうか、とりあえずミクロ経済のことを考えましょうよ。

浜田:だとしても、なんだろう。恵んでもらうのって、気分的に嫌なんですが。

堀江:え、なんでですか? 僕、おごってもらったら超うれしいですけど。

青野:僕らを阻んでいるのは、心の壁ってことですかね。

浜田:労働の対価としてお金をもらうというのがしみついていますからね。

堀江:お金をもらうという意味では、投資されようが寄付されようが恵んでもらおうが働こうが、すべて一緒なんですよ。そもそも、お金じゃなくたっていい。
さっき食費の話をしていましたけど、飯はぜんぶおごってもらえばいいじゃないですか。

出典:「個人が会社を使うという働き方はおもしろい」──ホリエモンと新しいカイシャを議論したら、生き方の話になった | サイボウズ式 2018年5月22日最終閲覧(太字・下線は管理人)

個人的に、堀江さんの思想や発言は(全部は賛成できずとも)面白いと思っていて、よく彼のブログを読んだり対談を聞いたりするのですが、しばしば上のような「働かなくても生きていける」あるいは「お金がなくても生きていける」という趣旨の発言を行い、その度に上のような反論をもらっています。

いかがでしょうか。最終的にどちらかに賛成するにしろ、堀江さんのおっしゃることも、それに対する浜田さんの反対意見もどちらも一理あるとは感じませんか?

この気持ちの悪い二面性は、堀江さんの発言がある意味では”妥当であり“、ある意味では”妥当ではない“ことからきています。

では、ここでいう”妥当”とは何か?次節で、この”妥当性”という概念を提唱した思想家に登場してもらいます。

ハーバーマス「妥当性要求」

今回登場していただくのは、存命中のドイツ人哲学者ユルゲン・ハーバーマスさんです!

他の哲学者同様、彼の思想も一言で表せるようなものではありません。ですが、あえて一言で表すのであれば、彼の哲学のポイントは以下の文に表されると思います(あくまで私個人の見解です)。

「何を”正しい”とするかは、社会に属する人々の話し合いによって決めよう」

この、「話し合い」と表現した部分は、ハーバーマスにおいては「コミュニケーション的行為」(独:kommunikatives Handeln)と呼ばれます。そして、この「コミュニケーション的行為」においては、話してそれぞれに対して以下の3つの「妥当性要求」がなされます(専門用語だらけで申し訳ありませんが、中身はすごく簡単なのでお付き合いください)。

<コミュニケーション的行為における3つの妥当性要求>

真理性要求(Wahrheitsanspruch)

ある発言が、客観的事実に整合しているか。

正当性要求(Richtigkeitsanspruch)

ある発言が、その社会が共有している価値観においてに正しいか。

誠実性要求(Wahrhaftigkeitsanspruch)

ある発言が正しいと話し手自身が信じているか。

重要なのは、とくに上の2つは何か普遍的に決まっているものがあるのではなく、コミュニケーションの参加者同士の「了解」によって認められるということです。

例えば、「地球は丸い」という発言は、数百年前(コロンブス以前かな)においては真理とは認められなかった(=真理性要求を満足できなかった)一方で、現代においては問題なく真理とされます。

同じように、「悪ガキには体罰があってしかるべき」という主張は、昭和の価値観では問題なかったかもしれませんが、最近では悪いこととされつつある(=正当性要求を満足できなくなっている)のです。

この2つに加えて、発話者自身の内面世界と整合していることを求めるのが誠実性要求です。机の汚い人が「整理整頓が何よりも大事です」と主張したところで、まったく説得力を持たないということが例としてあげられます。

「働かなくても生きていける」発言と妥当性要求

さて、準備が整ったところで、話を堀江さんに戻しましょう。上の対談をもう一度引用して、堀江さんに対し対談相手のお二人からどのような妥当性要求がなされているかを分析してみます。

浜田:いらない人たち(管理人注:「社会の役に立つ仕事ができていない人々」といった意味合い)は、どうすればいいのでしょうか。

堀江遊べばいいんじゃないですか? アリとキリギリスだったら、キリギリスになればいい。(←以下で、この発言の妥当性が検証される)

浜田:遊んでいるだけじゃ、食べていけませんよね。(←真理性要求。「仕事をしてお金をもらわなければ生命を維持できない」という経験的知見に基づく)

堀江:そう、こういう話をすると、必ず「食っていくこと」について聞かれるんですよ。ちょっと攻撃しますけど、「食っていく」ってなんですか? 定義を教えてください。

浜田:お給料が入らないと、生活費がないから、食費も家賃も払えない。つまり生活ができない、ということです。(←引き続き真理性要求。経験的知見を提示している)

堀江:本当に生活できませんか?

浜田:入ってくるものがなければ、支払えないじゃないですか。(←同上)

堀江:支払わなければいいじゃないですか。恵んでもらえばいい。

浜田:それって、実際にどれだけの人が可能かという話もありませんか?(←このあたりから正当性要求「誰も働かなかったら社会が成り立たない」という前提のもと、「自分だけ働かないことは認められない」という主張)

堀江:あなたは別に社会全体のことなんて考えなくていいんですよ。自分が恵んでもらえるかどうか、とりあえずミクロ経済のことを考えましょうよ。

浜田:だとしても、なんだろう。恵んでもらうのって、気分的に嫌なんですが。(←引き続き正当性要求。「働かざる者食うべからず」という社会的価値観を根拠にした発言)

堀江:え、なんでですか? 僕、おごってもらったら超うれしいですけど。

青野:僕らを阻んでいるのは、心の壁ってことですかね。

浜田:労働の対価としてお金をもらうというのがしみついていますからね。(←引き続き正当性要求。社会的価値観の提示)

堀江:お金をもらうという意味では、投資されようが寄付されようが恵んでもらおうが働こうが、すべて一緒なんですよ。そもそも、お金じゃなくたっていい。
さっき食費の話をしていましたけど、飯はぜんぶおごってもらえばいいじゃないですか。

出典:同上

いかがでしたか?堀江さんのお話に対して、真理性(本当に働かなくても食べられるのか)と正当性(働かずに食べることは許されるのか)という二つの観点から妥当性要求がなされていることがわかりましたね。

今回は登場しませんでしたが、堀江さんの場合は加えて「堀江さん自身はいっぱい働いていっぱいお金を稼いでいる」ことも、他人に彼の主張を納得してもらうにはネックになっているのでしょうね。「働かずに食べること」が「本当にできるのか」「許されるのか」という議論に加えて、「そうは言ってもあなた自身は働いているじゃないか」という観点から、誠実性要求に応えられていないというのが、論敵の言い分には含まれているかもしれません。

もう一度要点をまとめておきます。

「働かなくても生きていける」という発言に対して、

真理性要求「それは事実なのか」

正当性要求「それは社会的に許されるのか」

誠実性要求「発言者は本当にそのように思っているのか」

の3つの妥当性要求がなされるということでした。このうち、仮に真理性要求を満たしたとしても、今の日本社会が共有している価値観および堀江さん自身の今の振る舞いによって、彼の発言が受け入れられにくくなっているということが示唆されますね(勘違いされる方がいたらよくないのでつけくわえておきますが、堀江さんの振る舞いを非難・攻撃する意図はありません。あくまで「そういうことが起こっている」という理論を提示しているだけです)。

おわりに

今回は、堀江貴文氏の「働かなくても生きていける」主張がなぜ世間で広く受け入れられないのかについて、ハーバーマスの「コミュニケーション的行為」理論に依拠して整理してみました。

仮に堀江さんの発言が聞き手の真理性要求に応えているとしても、正当性要求や誠実性要求の観点から見ると、現在の社会状況や彼自身の状況においては、必ずしも受け入れられるわけではない。以上が、この記事が出した結論です。

ところで、ハーバーマスによれば、我々が客観的に真理だと思っていること、また社会的に「こうあるべきだ」と思われていることは、こうしたコミュニケーション的行為を通して維持され、また更新されていくものだとのことです。

少し極端な言い方をすれば、例えば堀江さんは上記のような「働かなくても生きていける」発言をすることによって、「『働かなくても生きていい』という形に価値観を更新しようよ」と提案しているのであるとも言えます。そして、その主張に対して別の人が賛成したり反対したりすることによって、現在の「働かざる者食うべからず」という価値観が維持されたり、更新されたりしていくわけです。

そのように考えると、「働かざる者食うべからず」という今の価値観が、数十年後かにそのまま維持されているかどうかはわかりません。こうした労働の価値観も、その他のルールや規範も、社会を構成する我々が今から行う対話によって決定されていくものなのだといえます。


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