相撲の「女性は降りて」騒動から:伝統が悪いのではない

この記事の英文対訳も作りました!よかったらご覧ください! →【英訳付き】相撲の「女性は降りて」騒動から:伝統が悪いのではない


市長倒れ、救命処置で土俵に上がった女性に「降りて」と行司がアナウンス 大相撲巡業の京都・舞鶴場所 | 産経ニュース

これ、かなりセンセーショナルな報道だったのではないでしょうか?

簡単に言うと、相撲の場所において、土俵の上で挨拶中の市長さんが倒れ、駆け寄った女医さんが心臓マッサージで延命を試みたところ、女人禁制の伝統に基づいて「女性は降りてください」という趣旨のアナウンスが流れたとのこと。

Twitterを見ていると「伝統を人命よりも優先するのか!」という趣旨の意見がたくさん確認できます。

協会としても間違いだったという認識らしく、理事長が以下のように謝罪したと報じられています。

「行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くおわび申し上げます」

出典:女性に「土俵降りろ」の放送、八角理事長「不適切な対応」 春巡業、救命処置の女性に感謝 | 産経ニュース2018年4月9日最終閲覧

私はこのニュースを見て、憤るというよりも「理解できないものに触れた衝撃」を感じました。私は相撲の知識は皆無であり、好きでも嫌いでもありません。女人禁制の伝統についてもなんとも思いませんし、今回の事件があったからといって「伝統を廃せ」と主張するつもりもありません。ただ、アナウンスを行った行司さんにとって、伝統が人命を前にしても優先されうるほどの確固たる判断軸になっていることに衝撃を受けたのです。

今日は、この出来事について2つの観点から論じたいと思います。1つめは女人禁制の伝統そのものについて、もう一つが伝統と今回のアナウンスの関係についてです。

※2018年4月5日に公開した記事ですが、同年4月9日に一部加筆修正しました。


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守るべき伝統?

なぜ女人禁制なのか?

「そこまでして守らなければならないほど、女人禁制は重要な伝統なのか?」

と疑問に思って少し調べてみると、興味深い論文を見つけました。

相撲における「女人禁制の伝統」について

こちらの論文では、相撲やそれと密接な関係にある神道・仏教思想の分析のもと、「相撲における女人禁制の伝統は明治時代に作られたものである」という主張が展開されています。「伝統!伝統!」とは言うけれども、女人禁制の慣習は相撲が生まれたころからあったものではなく、ほんの100年ほど前に協会によって意図的に作られたものに過ぎないとのことです。相撲界が女人禁制の”伝統”を作った動機について、筆者らは次のように推測しています。

相撲が女性を差別した理由としては,相撲(取) の地位確立という目的がやはり第一に挙げられるであろう。江戸時代に行われていた盲人と女性による合併相撲などの醜悪さは,相撲が地位を確立するためには大きな妨げになったはずである……合併相撲の様態は,先にも触れたが,少なからず盲人に対しての民衆の差別的な感情を煽っており,差別を助長する働きがあったと言っても過言ではない。この歴史的事実は,生き残りや地位向上を図りたい相撲界にとっては,強い逆風であっただろう。相撲界は女人禁制を取ることで, 人々の意識から“醜悪な相撲’’が消え去ることを期待したのではないだろうか。

また,相撲の地位確立に関して,外国の目を強く意識していたことも忘れてはならない……女性が土俵上で“取っ組み合う’’様子は, 文明国家のものではないと考えられたのだろう。

出典:吉崎, 祥司; 稲野, 一彦『相撲における「女人禁制の伝統」について』2008、北海道教育大学紀要, 人文科学・社会科学編, 59(1): 71-86

ざっくりいうと、世間および欧米に向けた相撲のイメージアップのために女人禁制の伝統がこしらえられたということですね。

伝統は絶対ではない

この論文に書いてあることが正しいのかは定かではありませんが、もしそうだとすると、もはや相撲は女人禁制の伝統を維持する必要はないのではないでしょうか。女子プロレスだってありますし、仮に女相撲を復活させたところで国内外における相撲の評判が落ちるとは思えません。

むしろ、性差別に対する反発が強くなり、先進国において女性の地位向上が著しい現状においては、女人禁制の伝統など取り払ってしまった方が相撲協会にとって得なのではないかと思います。相撲協会においても伝統か男女平等かという論争が行われることは度々あるそうですが(参考:伝統か男女平等か それでも女性が土俵に上がれない理由)、価値観の問題はさておき、どのみち女人禁制の伝統など廃止してしまうのが、相撲協会が取りうる最適戦略なのではないでしょうか。

いずれにせよ、絶対に守るべきと自分たちが信じて疑わないものが、実はそんなに普遍的なものでも重要なものでもなかった、ということは十分に考えられるわけで、常識や規範を無批判に受け取ることの危険性が垣間見えてきますね。

個人の判断について

2つめの論点については、ドイツの政治哲学者ハンナ・アーレントの『責任と判断』に依拠して述べさせていただきます。

当ブログで以前に2回紹介させていただいているアーレントですが、第二次世界大戦中のドイツを生きたユダヤ人の彼女は、ナチ党に関わる一連の出来事(ユダヤ人虐殺、第二次世界大戦)に巻き込まれながら、個人の判断についてとことん突き詰めて考えていました。以下、彼女が取り組んだ大きな問題の1つ「アイヒマン論争」に関するお話です。

第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチ党の党員だったアドルフ・アイヒマンは、任務としてユダヤ人の大量虐殺を遂行しました。戦後、罪を問われた彼(および弁護側)は、裁判で次のように主張します。すなわち、「自分は、社会の大きな仕組みの中にあって党の命令で動く歯車に過ぎず、他の人だってこの立場にいれば同じことをしたはずである。取り替えのきく歯車としての自分が犯した罪だから、個の人間としての自分は悪くない」と。このような理論を、アーレントは「歯車理論」と呼びました。

確かにアイヒマンは歯車であったのですが、それにも関わらず裁判はアイヒマンを処罰しました。そしてアーレントもその判決を支持しています。

判事たちが大きな努力を払って明らかにしたことは、法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだということでした。もしも被告が役人であったとしても、役人ではなく、一人の人間として裁かれるのです……「わたしではなく、わたしがそのたんなる歯車にすぎなかったシステムが実行したのです」という被告の答えに対しては、法廷はただちに次の問いを提起するからです。「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですか、なぜ、歯車であり続けたのですか

出典:ハンナ・アレント著, ジェローム・コーン編, 中山 元訳『責任と判断』

筑摩書房, 2007, pp.40~41(太字は管理人)

ここでは裁判でどうこうという問題について書かれていますが、本質はそこではなく、党の命令という外的な権威と個人の「判断」の関係性にあります。虐殺を命じたのは上司かもしれませんが、その命令に従ったのはアイヒマンです。

話を今回のニュースに戻すと、伝統という外的権威と個人の判断軸にどう折り合いをつけるかということが、今回関係者に問われたことではないかと思います。「だって伝統が女人禁制を唱えているから」ではなく、目の前で人が倒れているという状況に対して、わたしはどう判断するか。アーレントが提起した個人の「判断」という問題が垣間見える事件だったように思われます。

まとめ:外的権威との付き合い方

スポーツ評論家の玉木正之氏は、今回の事案について以下のように見解を述べていらっしゃるそうです。

「伝統が本当に正しいか、時代に合っているかを考える必要がある。そもそも、相撲関係者がどれだけ伝統の意味を理解しているのか疑問で、おそらく教条主義的に『女性は土俵に上がってはいけない』としているのではないか」

出典:「下りなさい」相撲協会員、口頭でも直接指示 心臓マッサージの女性は看護師「いたたまれず、とっさに…」 | 産経ニュース2018年4月9日最終閲覧

「なぜ女人禁制なのか」「今の時代も女人禁制であるべきなのか」という問いが協会内で提示されず、女人禁制が絶対の法であるかのごとく錯覚された結果が、今回のような対応につながったのかもしれませんね。

誤解のないように付け加えておきますが、本記事に「女性の方は土俵から降りてください」とアナウンスした行司の方を糾弾する意図はありません。伝統に従って発言した彼を罰するべきだとは思いませんし、むしろユダヤ人虐殺という惨劇を例え話に出してしまったことを申し訳なくも感じています。また、女人禁制の伝統を悪しきものだとして避難する意図もありません。とにかく、何かに対する攻撃として書かれた記事でないことはご理解ください。

ただ、法、命令、伝統、規範……そうした外的権威が命ずるものに対して立ち止まって考える必要性を、今回のニュースで感じ、それを共有したまでです。1番目の論点で述べましたように、常識とされているものや、正しいとされているものも、ある時点での必要性のために作られた、なんの普遍性も持たないものかもしれない。そして、2番目の論点で述べましたように、外的権威が命ずることであっても、最後に判断するのは自分である。

もしかしたら私たち自身も、常識や外的権威に無批判に服従した結果、誰かを傷つけていることがあるかもしれません。1つ1つの行動の是非について「立ち止まって自分で考える」ということを大事にしていきたいと改めて思わされた出来事でした。


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