「主語の大きい発言」と「差別」について

こんにちは!

「凡さんす」(@academicocktail)と申します。

ジェンダーについてよく考えているフリーターです。

今回は、「差別」について考えるにあたって示唆的なある動画についてお話ししたいと思います。

2分ほどで読み終わる記事ですので、どうかお付き合いください。

主語がデカイ人を見た時の正しい対処法 by やまもとりゅうけん氏

今回取り上げますのは、こちらの動画です。

時間のない方のために私の方で要約させていただきます。

りゅうけん氏の主張の要約:

ある集団Aを指して「Aは〜だ」という主張をする人がいたとき、「〜でないAもいます」といちいち反論する奴はバカ。なぜなら、「〜なAもいるし、〜でないAもいる」のを発言主が知っているのは当然で、何事も正確に表現しようとしてもキリがないから。

たとえば、「東京のサラリーマンは全員クソだ」という人がいて、自分が東京のサラリーマンだったとしても、「そういう見方もあるんだふーん」と受け流す、ある種のエンタメとして楽しむべき。いちいち目くじらをたてるのは時間がもったいない。

以下では便宜上このような考え方を「リュウケニズム」と呼ぶことにします。

リュウケニズムとフェミニズムの比較

さて、主語の大きい発言を「黙認」するリュウケニズムとはことなり、主語の大きい発言に対し「抗議」するというスタンスも世の中には存在します。

たとえば、性差別の撤廃を訴えるフェミニズムという思想がそれにあたります。

それでは、実際にあった「主語の大きい発言」を例に、リュウケニズムとフェミニズムを比較してみましょう。

以下に書きましたのは、2016年にリリースされたHKT48の楽曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞からの引用です。

〈難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい 二足歩行が楽だし ふわり軽く風船みたいに生きたいんだ〉

〈女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい〉

〈テストの点以上瞳の大きさが気になる どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない スカートをひらひらとさせてグリーのように〉

〈世の中のジョーシキ 何も知らなくてもメイク上手ならいい ニュースなんか興味ないし たいていのこと誰かに助けてもらえばいい〉

〈女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい それよりも大事なことは そう スベスベのお肌を保つことでしょう?〉

〈人は見た目が肝心 だってだって 内面は見えない 可愛いは正義よ〉

この歌詞を読んだとき、リュウケニストとフェミニストはそれぞれ以下のような反応を示すと考えられます。

リュウケニスト

ふーん、私はちゃんと勉強して頭よくなりたいけどな。そういう考え方もあるんだ

フェミニスト

これは「無能であれ」という女性に対する抑圧のメッセージだ!女性差別だ!

それぞれの反応のメリットを考えてみると、次のようなものが挙げられるでしょうか。

リュウケニズム的反応

・自分の心の平静を保てる

フェミニズム的反応

・社会における差別的な文化にストップをかけることができる。

このような態度にどんな問題があるかといえば、それは人々の差別意識を助長することにあります。

「女の子は勉強しなくていい」という価値観が広まれば、親も学校も女の子に投資しなくなって、女性の地位が低い状態が維持されてしまうんですね。

今回の記事で結論は出せないのですが、「主語の大きい発言を見逃すべきか否か」というのは、日常生活に深く関わる身近で重要な問題であるという気がします。


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