「耳で聴かない音楽会」はルソーの音楽論を塗り替えるか?

聴覚障害者の方も楽しめる「耳で聴かない音楽会」が実現し、話題を呼んでいます。

《耳で聴かない音楽会》テクノロジーで挑む、音楽のバリアフリー(落合陽一 × 日本フィル)

同音楽会は、”SOUND HUG”というデバイスをもって、実現されました。音楽の振動を伝える振動スピーカーと音楽に同期して光るLEDによって、耳の聴こえない方でも音楽を感じることを可能にしたとのことです(詳しいことは記事をごらんください)。

このようなイノベーションは、それ自体が感動的なものでありえますが、理論的な面から考察してみることにより、その面白さをまた別の角度から味わうこともできます。

普段、音楽を”耳で聴く”ものだと思っている我々、少なくとも私は、「耳で聴かない音楽会」の実現によって、音楽とは何かを問い直す必要に迫られているといえます。

ここでは、当ブログおなじみ(笑)のジャン=ジャック・ルソーによる音楽論の視点から、「耳で聴かない音楽」の理論面での貢献について検討してみたいと思います。


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ルソーの音楽論

政治哲学で有名なルソーは、実はプロの作曲家でもありました。日本でわかりやすいところでいうと、「むすんでひらいて」などは彼の作品です。

ルソーは音楽が大好きで、自伝等でも度々音楽について語っています。

彼にとって音楽とはなんだったのでしょうか?ルソーは、人間か奏でる音楽の起源について、言語の起源とともに、次のように語っています。

最初の声とともに最初の文節あるいは最初の音が形成された。その違いはその双方のもととなった情念の種類による。怒りは舌と口蓋によって分節される脅しの叫びを引き出す。しかし愛情の声はより甘美であり、それに変化を与えるのは声門であり、その声は音になる。しかしその付随する感情によって、抑揚はより頻繁になったり稀になったりし、変化は高かったり低かったりする。そのように拍子や音は音節とともに生まれ、情念はすべての器官を語らせ、その輝きすべてをもって声を飾る。そのように詩句、歌、音声言語は共通の起源を持っている……リズムの周期的で律動的な回帰、抑揚の旋律豊かな変化は、言語とともに詩と音楽を誕生させた……

出典:ルソー著、増田 真訳『言語起源論』岩波文庫、2016年、pp.90

別の箇所も参照しつつまとめると、「人間の音楽は情念から生まれた」ということになります。ここでいう情念とは、身体的な欲求(お腹すいたとか)や論理的思考を行う理性とは区別される、喜怒哀楽の感情のことです。

では、情念がいかにして音楽と結びつくのか。ルソーによれば、音楽は情念を模倣する芸術であるとのことです。

私が理解した限りで説明します。例えば、壺を描いた絵画は、「壺」という「物体」を「模倣」して(真似て)できています。それと同じように、音楽は、例えば「喜び」などの「情念」を「模倣」してできる芸術であるということです。

そして、ルソーによれば、音楽は「旋律」(メロディー)を媒介して情念を模倣します。

……絵画を模倣芸術にするのはなんだろうか。デッサンである。音楽をもう一つの模倣芸術にするのはなんだろうか。旋律である。

……旋律は、声の変化を模倣することによってうめき声、苦痛や喜びの叫び、脅し、うなり声を表現する……旋律は言語の抑揚や、各言語において心の動きに用いられる言い回しを模倣する。

出典:同上、pp.100

単なる絵の具の集まりにすぎない絵画が現実を模倣できるのは、デッサン(輪郭の下書き)があるから。同じように、空気の振動の集まりにすぎない音楽が情念を模倣できるのは、旋律があるから。ルソーはそのようにまとめました。

ここまでの流れを具体例に即してまとめます。例えば、「喜び」という情念が発生した時、私たちは「やったー!」と声をあげます。そして、この「やったー!」という声の抑揚を真似た旋律(メロディー)で歌う、もしくは音を奏でることによって、聴き手に喜びの情念が伝達されて(共感されて)、それが感動を与えるということです(下図)。もちろん、これはあまりにも単純化した例ですが、全ての音楽はこのような原理から発生しているというのがルソーの理論です。

このようにして、「情念」に端を発する「声」が「旋律」によって「模倣」されることで、人々はベースとなっている情念に共感し、音楽を心地よいと思ったり感動したりするというのが、ルソーの音楽論です。

音楽は耳で聴くものなのか?

少し本筋に関係ないことを。ルソーは「耳で聴かない音楽」の可能性を認識していたのでしょうか?

少なくとも上に引用している『言語起源論』を読むだけではわかりません。しかし、同書全体を通して、「耳で聴く」ということが前提に音楽は論じられています。

……われわれにとって最も美しい歌でもそれに慣れていないにとってはいつもあまり感動的ではないだろう。

……田舎の人のには、われわれの協和音は雑音にしか聴こえない。

出典:同上、pp.101(太字は管理人)

もしかしたらルソーは、音楽は耳で聴くものとは限らないと考えた上で、わかりやすさを優先して「耳」という言葉で統一して論じていたのかもしれません。いずれにせよ、『言語起源論』内における音楽論は、テクストを素直に読む限り、「音楽は耳で聴くもの」という前提の下で展開されています。

「耳で聴かない音楽会」による、ルソー音楽論の更新

やっと(!)、話を「耳で聴かない音楽会」に戻します。同音楽会は、文字通り聴覚による音楽の伝達を前提としていません。これは、ルソーの音楽論に依拠すれば、どのように説明できるでしょうか。

次のように図解してみました。赤い矢印の部分が、今回の音楽会によって切り開かれた、あるいは発見された回路です。

このように、もし、「耳で聴かない音楽会」が、聴覚障害者に音楽を伝えることに成功しているのであれば、それは情念が「声」を介さない別ルートで音楽として人々の間に伝達されることを意味します。したがって、もしルソーの音楽論に基づいて同音楽会を説明するのであれば、それは情念が音楽に至るメカニズムについて、新しい道を切り開いたと言えます。

不明な点:ほんとうに情念を共有できているのか?

わからないことが一つあります。聴覚以外を通しての情念の共有は、いかにして可能なのか?

聴覚で情念を共有するというルソーの理論はシンプルです。「喜び」を模倣する音楽を作りたければ、喜んだときに出す「やったー!」という声の抑揚を模倣したメロディを作ればいい。

一方で、今回の「耳で聴かない」音楽会では、「発光」と「振動」による音楽の共有を行っています。しかし、私たちは喜んだ時に発光もしないし、誰かに会いたい時に震えることもないのに、なにゆえ発光や振動によって情念の共有を行うことができるのでしょうか?あるいは、情念の共有などできておらず、「耳で聴かない音楽会」においては耳が聴こえる聴衆と耳が聴こえない聴衆は、まったく違うものを味わっているのでしょうか?

要するに、「耳で聴かない音楽会」において、ほんとうに健常者と聴覚障害者は同じ音楽を味わっているのか??

ありうる答えを列挙すると以下のようになります。

<問い>「耳で聴かない音楽会」において、ほんとうに健常者と聴覚障害者は同じ音楽を感じているのか??

A. 音楽としての情念の伝達は、聴覚以外の何らかの感覚器官を通しても可能である。したがって、「耳で聴かない音楽会」においては観客全員が同じ音楽を感じている

B. 音楽としての情念の伝達は、聴覚を通してのみ可能である。したがって、同音楽会において、聴覚障害者が音楽を感じることはできず、健常者と聴覚障害者が感じているものは違う

C. そもそもルソーが間違っていて、音楽は情念の伝達ではない。したがって、健常者と聴覚障害者が同じものを聴いているかは、ルソーの理論に基づいては決定できない

この疑問の解消については、また別の機会に譲りたいと思います。何か思いついた方はコメン-トで教えていただきたければ幸いです(笑)


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