カント『純粋理性批判』紹介と、西洋哲学に感じるモヤモヤ

空は、青い

コーヒーは、苦い

ブルゾンちえみは、面白い

これらは、およそ反論されることのない普遍的な共通認識だと思いますが、このような、相異なるXとYという2つの概念(例えば「空」と「青」は同じ概念ではない)に関して「XはYである」とする判断を、我々はいったい何に基づいて行っているのでしょうか?

言うまでもなく、経験です。我々は、生まれてから今までにいろいろな対象に触れてきたために、このような「XはYである」という判断を行うことができます。例えば、「昨日見た空は青かった。今日見た空も青い。もう何百日も青い空を見ている。ということは、空は青いんだ!」というふうにです。

では、一切の経験なしに、我々が行う認識できる命題はあるでしょうか?すなわち、空を見ることも、コーヒーを飲むことも、ブルゾンちえみで笑うこともなしに、万人が共通して「XはYである」ということのできる判断はあるでしょうか?

一冊の本を書いてこの問いに答えたのが、ドイツの哲学者エマニュエル・カントです。

カントとは?

エマニュエル・カントは、ドイツ観念論の創始者と言われる哲学者で、近代西洋哲学における最も重要な人物の一人です。私はあまり哲学に詳しくはないのですが、いろんな本を読んでいると「カントまでの西洋哲学は……」「哲学はカント以降……」という言い回しをよく目にすることから、西洋哲学を理解する上で欠かせない人物なのだなと感じ、最近は彼の思想を勉強していました。

勉強していた、とはいっても、カント自身の著作を読む力は今のところないので、カント研究者の方々が書かれた様々な入門書を読んでいた形です。

というわけで、私のカント思想に対する理解度は、30%からよくて50%くらいなのですが、ここまで勉強していて考えたことを少しみなさんに共有しておきたいと思います!

カントが解いた3つの問題

故郷ケーニヒスベルクからほとんど外に出ずにずーっと哲学をしていたカントは、数多くの著作を残していますが、その中でも今日とくに重要視されているのが、「三批判書」と呼ばれる3つの著作です。

カントは自身の生涯において大きな3つの問いを解きましたが、その一つひとつが「三批判書」それぞれに対応しています。

3つの問いと対応する「三批判書」

・人間は何を知ることができるか(真)『純粋理性批判』

・人間は何をするべきか(善)『実践理性批判』

・人間は何を美しいと感じるか(美)『判断力批判』

私なりにまとめると、カントの目標は、「人間に関して、いかなる条件にも左右されない普遍的な真理を見つけること」です。何も経験したことのない人でも知ることができるもの、何の法律がなくても人がなすべきこと、好みが違っていても誰もが美しいと感じるもの。これらを明らかにするのがカントの目標でした。

このうち、今回は一番上の「人間は何を知ることができるか」という問いを紹介し、それについてコメントを入れたいと思います。

「アプリオリな総合判断」とは?

カント哲学にはたくさんの専門用語があるのですが、とりあえず以下を読み進めるにあたって、1つだけ覚えていただきたいと思います。「アプリオリな総合判断」(独:synthetische Urteile a priori)という言葉です(「アプリオリ」と「総合判断」それぞれの意味については今回はおいといて、一単語として扱います)。

アプリオリな総合判断:

「XはYである」という判断のうち、一切の経験によらずに人間が判断でき、かつ、Xの定義にYが含まれていないもの。

抽象的でわかりにくいと思いますが、ポイントは2つです。すなわち、「経験に依存していない」ことと、「主語の定義に述語が含まれていない」こと。

まずは、「アプリオリな総合判断」とは言えない判断をいくつか挙げていきます。

例えば、「空は青い」、これはダメです。なぜなら、青空を見たことがなければ、そのような判断をすることはできない(=経験に依存している)からです。

次に、「コーヒーは苦い」について検討しましょう。もし、コーヒーを見たことがあるだけで、コーヒーを飲んだことがない人が、それでも「コーヒーは苦い」と言えるのであれば、「一切の経験に依存していない」といえます。ですが、実際にはそれは不可能ですので、こちらも「経験に依存して」おり、「アプリオリな総合判断」の要件を満たしていません。

冒頭に挙げた最後の命題「ブルゾンちえみは…」はちょっと議論がややこしくなるのでやめときます(笑)

代わりに、「マラソン金メダリストは(出場者の中で一番)足が速い」。これは、どうでしょうか?コーヒーとは違って、実際に走っているのを見たことがなくても、「金メダルを取っている」という事実だけに基づいて「足が速い」と判断することができる(=経験に依存していない)ので、「アプリオリな総合判断」の要件を満たしているように思われます。しかし、これは、別の理由でダメです。すなわち、「金メダリスト」ということばの定義中に、すでに「その大会で一番速かった人」という内容が含まれているので、「主語の定義に述語が含まれていない」という要件を満たしていないのです。

少し冗長になりましたので、ここまでの議論を図にまとめておきます。

こうして、私たちが普段行っている判断のほとんどは、経験によってしか主語と述語の関係を知り得ないか、そうでなければ多くの場合は主語の定義の中に述語が含まれてしまっているので、「アプリオリな総合判断」ではないことがわかってきました。

では、「アプリオリな総合判断」はどこにあるのでしょうか?私たちが一切主語と述語の因果関係を経験したことがなくても知っていて、かつ主語と述語に定義的な関係はない判断って、存在するのでしょうか?

「アプリオリな総合判断」の例:数学的命題

カントは、数学的命題を、「アプリオリな総合判断」の具体例として挙げています。実際に『純粋理性批判』に登場するのは以下の2つです。

<「アプリオリな総合判断」の例:数学的命題>

(1) 7+5は12に等しい

(2) 直線は二点間の最短距離である

まず、(1)に関していえば、7+5、という概念それ自体の中には、いくら定義を分解しても12という概念は含まれていません(=主語の定義に述語が含まれていない)。それなのに、我々は、7と5を足してみた経験がなくても、それが12であることを知ることができます(=経験に依存していない)。

次に、(2)に関していえば、「直線」ということばに「最短距離」の概念は含まれていません(=主語の定義に述語が含まれていない)。それは、「直線」という言葉には、「まっすぐ」という的な概念しか含まれていないのに対し、述語の最短は的な概念を表すことからわかります。そして、「直線」が「二点間の最短距離」であることを我々は、「この直線も最短だ、あの直線も最短だ」と繰り返し直線を引いてみることによって知るのではなく、直線を見たことがなくても知っているのです(=経験に依存していない)。

このように、カントは、「アプリオリな総合判断」として我々が経験に依存せずに何を知りうるかを明らかにすることによって、人間の理性にできることとできないことを調べました。これが『純粋理性批判』のメインテーマの一つです。

もっとも、現在では、上記のような数学的命題ですら「アプリオリな総合判断」ではないことが証明されており、カントの主張通り「アプリオリな総合判断」が存在するのかは、怪しくなっているそうです(下記リンク参照)。アプリオリな総合判断:カントの純粋理性批判 – 知の快楽 – 東京を描く

本当に”人間一般”の話してる?

以上が、『純粋理性批判』における、「アプリオリな総合判断」を考察対象としたカントの理論の紹介でした。ここからは、同書の内容を勉強して私が考えたことを書きます。

原著をほとんど読んだことなくこんなことをいうのもおかしいのですが、個人的に『純粋理性批判』における議論が若干しっくりこないんですよね。どこに違和感を覚えるんだろうと考えてみたのですが、一つには、「人間存在全般に普遍的な真理を求めようとしながら、五感、とくに視覚と触覚に問題ない人の視点で議論が進んでいく」ような気がすることです。盲目の人だって、もっといえばヘレン・ケラーのように見ることも聞くことも話すこともできない人だって人間であるはずなのに、カントのように体に不自由のない人の視点で話が進んでいくのを見ていると、なんだか、”人間一般”の話になりきれていないという意味で、自分が立てた問いを持て余している気がして。

(もし読者の中にカント専門家の方がいらっしゃいましたら何かこの点について反論いただけると嬉しいです(^^;;)

そこで、五感の揃っていない人にもカントの理論が適用可能なのかを考えてみたいと思います。ここでは一つ例として、「視覚と触覚が欠けている人にも「アプリオリな総合判断」が可能であるのか」を考察させてください。

まず、前節の(2)「 二点間の直線は最短である」のような幾何学的命題に関していえば、これはほぼ無理でしょう。全盲で、かつ触覚がないために点図を用いることのできない人に、直線という観念を持つことは不可能だと思います。同様に、「二等辺三角形の2つの底角は等しい」なども、「二等辺三角形」という観念をえることができない以上は、これも不可能な総合判断になります。

しかし一方で、上記(1)のような算術の命題は、視覚と触覚なしでも判断することができるかもしれません。例えば、上記の(1)「7+5は12に等しい」という命題に関していえば、次のように刺激を与えることによって、判断してもらうことができるのではないでしょうか?

(1)ドの音を7回聞いてもらう。

(2)レの音を5回聞いてもらう。

(3)今聞いた数と同じ回数だけ、声を出してください。と指示する。

このように、同じ数学の中でも、幾何学的判断は特に視覚・触覚に依存した観念である一方で、算術的判断は、他の感覚器官を通じて受け取った刺激からも形成することが可能であることが示唆されます。冒頭では「しっくりこない」と言っておきながらではありますが、カントの考えた「アプリオリな総合判断」の可能性は、五感が揃っていない人間を議論に含めた上でも存在しうるというのが、この記事の結論です。

おわりに

このブログを書き始めたくらいから少しずつ西洋思想の勉強をはじめてみて、まだまだ全体像を把握するにも至っていないのですが、最近なんとなくモヤモヤすることが増えてきました。カントに限らず、西洋哲学は勉強していて楽しいんですけれども、どれもこれも「人間とはなんぞや?」的な、”人間”であれば誰でも当てはまるようなことを真理を見つけようとしながら、心身になんの障害も持たない健常者のことに議論を(無意識に)限定している気がして、そこがしっくりこないんですよね。目の見えない人、病気で物事を考えられない人、世の中いろいろな人がいるわけで、全ての人々を含めて「人間とは◯◯」である、とか、「人間は〜〜すべきである」という普遍的な真理を求めることって、ほぼ無理じゃないかと、個人的には感じています。

哲学によってあらゆる人間に当てはまる原理原則を追い求めるのはある程度にとどめて、あとは自分が暮らしている場所、生きている時代、関わっている人々の文脈にしたがって生きていければいいかなと思います。もちろん、法律や規範がどんどん変わっていく中で、揺るがない自分のモットーを確立するために哲学の勉強は非常に有用ではあります。ですが、哲学研究の道に進むのでなければ、原理原則を追い求めるのはある程度にして、あとは自分が生きている世の中で正しいとされているものに基本的には従って、ときにそれを批判しつつ生きていくのが現実的かなというのが、現時点での私の考え方です。

長くなりましたが、以上、カントの代表作『純粋理性批判』についての記事でした!次回はたぶん「三批判書」の2番目『実践理性批判』について書きます〜

一番わかりやすかったカント入門書のamazonリンクを貼っておきますので、よかったらどうぞ!


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