『エミール』教育思想を解説:ルソーが小学校を作ったらこうなる

こんにちは!「凡さんす」(@academicocktail)です!

本日は、フランス啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーがの教育思想を紹介します。

とはいっても、ただ紹介するだけでは面白くないので、

「もしルソーが現代日本で小学校を作ったらどうなるか?」

というテーマに沿って話を進め、彼が理想とする教育についてイメージをつかんでいただくことにします。

※2018年5月10日に公開した記事ですが、同年11月10日に一部加筆修正しました。


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ルソーの教育論『エミール』

まずは、簡単にルソーという人物と、その著書の紹介を行います(本題は次のセクションから始まりますので、さっさと結論を知りたい方はスクロール!)。

ルソーといえば、その主著『社会契約論』にも見られるように政治哲学者としての業績が一番有名だと思いますが、結構「多動力」の人です。政治理論を構築するほか、『新エロイーズ』というラブコメ……恋愛小説を書いていたり、作曲したり(「むすんでひらいて」は彼の作品です)、露出狂をはたらいて警察に捕まったり、盗みを働いた上で好きな女の子に濡れ衣を着せたりなどなど、多才に活躍しています。

このようにして彼がチャレンジした事柄の中に教育学があります。そして、彼が考える理想の教育のあり方をまとめたのが、当記事で参考にする『エミール』という著作です。

この本では、架空の教育者ジャン=ジャックが、同じく架空の孤児「エミール」を幼少期から結婚するまでの間教育する過程を描いた作品であり、ルソーが考える理想の教育、すなわち、そのままの実現は難しいけれども最良と思われる教育の方法をまとめた本です。

今日は、『エミール』に記されているルソーの教育哲学に基づいて、「もしルソーが現代日本で小学校を作ったらどうなるか?」という議題について仮説を立ててみたいと思います。

<留意点>

実は、ルソーはある理由から、とくに思春期以前の教育は師と子どもの一対一で行われなければならないとしています。したがって、そもそもルソーが小学校を作ることはありませんが、今回はその部分を無視して考察しています。

本題:ルソーの教育思想に基づいた小学校はどんな感じ?

それでは、本題「ルソーがつくった小学校がどうなるか」について考えていきます。

はじめにルソーの教育思想を簡単に解説して、次に、それを小学校のシステムに当てはめていくという形で進めていきますね。

ルソー教育思想の大原則:文字より体験が先

まず前提として、彼の教育思想の大事なポイントを解説します。

『エミール』の中には、ルソーが徹底して貫いている原則がいくつかあるのですが、今回はそのうち特に以下に示される原則に従ってルソーの小学校像を構築していきたいと思います。

どんな勉強においても、表現される事物の観念がなければ、それを表現する記号にはなんの意味もない。

出典:平岡昇訳『ワイド版世界の大思想 II-10 ルソー エミール』, 2005年, pp.93

『エミール』の中では同様の趣旨のことが何度も繰り返されますが、私なりに簡潔に表現すると「文字より体験が先」という意味になります。例えば、海を見たことがない子供に海の性質を知識として詰め込んだり、自由や平等の尊さを肌で感じたことのない子供に民主主義の意義を説いても意味がないということです。

では、この原則を念頭に置きながら、早速ルソーの小学校がどんなものになるか考えていきます。

ルソー小学校の教科指導

国語

……私は彼らの最大の不幸を作り出す道具、つまり書物をとりあげる。読書は幼年時代のわざわいであるが、しかも人々が子供に与えることのできるほとんどただ一つの仕事になっている。

出典:同上, pp.102

すごくラディカルな文章ですよね(笑)ルソーは他の著作で当時の特権階級を批判するときもこんな調子であり、そのためよく炎上なさっていたそうです。

さて、上記引用部分が示唆する通り、ルソーが小学校で教えるのであれば、現行のような説明文や物語文を読む授業は決して行われません。どんなに文章を読み解いても、現物に触れたものを理解するはずがないというのが彼の考え方だからです。

それでも、なんらかの形で国語の授業を行わなければならないとしたら、彼はどうするでしょうか?

繰り返しになりますが、「現物に触れさせる」というのが彼の答えです。

たとえば、小学校の教科書によく載っている「純銀モザイク」という詩を鑑賞させることを考えましょう。「いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな……」と永遠に続くアレです(全文は山村暮鳥 風景 純銀もざいく – 青空文庫などからご覧いただけます)。

ルソーならまず、子どもたちを実際に「いちめんのなのはな」が広がっている原っぱに連れていきます。そしてそこで花を鑑賞してもらったり、自由に遊んでもらったりするのです。

そして帰ってきてから、「純銀モザイク」の詩を読ませます。こうすることによって、作者が「いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな……」と延々と繰り返すことによって伝えたかった意図を、理解するのではなく感じます。こうして、子ども達にとって、この詩がただの記号の羅列ではなく、大自然を目の当たりにした作者の感動の表現として積極的な意味を持つものになるのです。そうすれば、一部の子ども達は自分も自然を見た感想を詩で表現したいと申し出るかもしれません。この段階に至って、教師は彼ら彼女らが自ら必要としている修辞法を教えてあげるのです。

算数

わたしは幾何学が子供の能力では手におえないと言ったことがある。しかしそれはわれわれが悪いのだ。子供の方法はわれわれの方法とは違っていて、われわれにとって推理の術となるものが、子供にとっては当然に見る術にほかならないということを、われわれはわかっていないのだ。

出典:同上, pp.138

ここでも、言語化する前に観念として体得するということが徹底されます。ルソーの生徒たちにとって、幾何学は現物から発生するものなのです。

たとえば、一つの円を書くのに、コンパスを使わないで、一つの軸を中心に廻る意図の尖端につけた針で描くだろう。そうしてから、わたしが半径を違いに比べてみようとすると、エミールは私を笑って、いつもピンと張った同じ糸が、等しくない距離を描くようなことはありえないということを、私に理解させるだろう。

出典:同上, pp.139

おそらくルソーは図形の性質をたくさん教える代わりに図工の授業をたくさん入れるのではないかと思います。円とは何か、二等辺三角形とは何かを教えられる代わりに、自分で試行錯誤して工作を行う過程で、さまざまな図形の性質を直感で理解し、中学校に上がった後にそれを理論として学ぶ、と言った具合にです。

理科

大きな物体を動かさなくてはならない場合だとしよう。長すぎる梃子を使えば、子供は運動量を浪費することになるだろう。また短すぎる梃子を使えば、子供には力が足りないことになる。やがて、経験によって彼は必要な棒を正確に選ぶことを学ぶことになるだろう。

……子供が同じ物質の、異なった大きさの物体を比較できるなら、同じ大きさの、異なったあ物質のものの中から選ばせてみるがよい。彼はそれらの物質の比重を比較することを大いに心がけなければなるまい。

出典:同上, pp.123

というわけで、ルソーの小学校における理科の授業では教科書にはほとんど触れず、ひたすら実験と観察を繰り返すことになります。荷物を運ぶ過程で物理や化学の法則を知る、動物や植物を育ててみてそれぞれの生態を知る、こうした生の体験を通して、一つひとつの事象を観念として自分の中に落とし込みます。そうすることによって、自然法則に対する興味が掻き立てられ、あとで(『エミール』に従うなら中学校以降で)理論や知識を学んだときの飲み込みがスムーズになるのです。

社会

人びとは子供に地球についての記述を教えようと考えながら、実際は地図の見方を教えているだけである。また都市や国や川の名前を教えられても、子供には、それらが見せてもらった紙の上以外のどこかに存在するとは考えられないのである。

出典:同上, pp.93

国語、算数、理科の授業を開講するとしたらどんなものになるか無理矢理考えてきましたが、社会についてはおそらくルソーの小学校では開講し得ません。というもの、引用部分にあります通り、通常の社会で暗記させられるような単語は、子どもが実物として感じ取ることができないものだからです。唯一行いうるとすれば社会科見学、すなわち校外に出て様々な施設を見て回ることでしょう(もっとも、ルソーによれば、ある理由から児童期のこどもは社会から切り離して教育されなければならないので、おそらくこうした活動も彼の教育哲学に反するとは思いますが)。

おまけ:給食当番はない

ここまで、「文字よりも体験が先」という原則に則って教科指導の方法を考えてきました。最後にもう一つ、「所有は労働に由来する」というルソーの考え方を体験から学ばせるための、給食当番の制度を考えてみます。

この点を考えるにあたって参考にするため、『エミール』の第一編(0~2歳児の教育方針)から少し引用します。「ハイハイもできない新生児が、何か自分の手に届かないものを欲しがった時にどうすべきか」、ルソーの回答をご覧ください。

彼(管理人注:子供)は人々の主人ではなく、また物体にも彼のいうことが聞えるわけでなないのだから、人間や物体に対して命令しないような習慣を、早くからつけておくことが重要である。こんなわけだから、子供の眼についたもの……を子供が欲しがる場合には、そのものを子供のところへ持って行くよりも、子供をその物のところへ連れて行ったほうがよい。

出典:同上, pp.42

このように彼はルソーは「欲しいものは自分の力で取りに行かなければならない」ということを子供に感じさせるべきだと考えていました。

さて、その精神に基づいて考えると、ルソーの小学校に給食当番はありません。児童一人ひとりが給食センターに足を運び、自分の分をよそって、食べます。そのようにして、「欲しいものは自分で取りに行かなければならないこと」を体験としてわからせます。そして、その延長線上に、「所有は労働に由来している」こと、すなわち、「自分で苦労して手に入れたものは必ず、またそのようなもののみが自分のものである」ことを子ども達は体得するのです。

誤解しないでいただきたいのですが、ルソーは給食当番のような社会的な役割分担を全く否定していたわけではありません。彼は、そうした社会性の教育よりも先にまずは「所有とは何か」という本質的に自分個人に属する観念を獲得するのが先だと考えたのです。彼の考えによれば、人間が自己愛を超えて他人と協力できるようになるのは思春期を超えてからであり、それまでには原則として「自分のものだけが、そして自分ものは必ず、自分のものである」という観念を植え付けておくべきだということでした。

補足:この「所有が労働に由来する」ことをルソーが強調したのには、彼の生きた社会状況が強く影響していると考えられています。金銀財宝に囲まれて偉そうにしていた当時のフランス王侯貴族が、実際には家来を使役しなければ何も手に入れることができなかった状態を、ルソーはみじめに感じたのです(参考:田中未来著『エミールの世界』誠文堂新光社, 1992年, pp.118)。

おわりに

今回は、『エミール』の、とくに「文字よりも体験が先」という主張に従って、ルソーが小学校を作ったらどのような教育が行われるかを思考実験してみました。これらを全て実行できるとも、またすべきだとも思いませんが、「実物を感じたことのないものを文字で学んでも効果が薄い」という考え方は、未だに知識詰め込みの風潮が強い日本の教育業界の現状を見直すにあたって一定の説得力を持つのではないでしょうか?

みなさんは、自分の小学校教育を思い出してみて、どんなところがよかった、あるいはどんなところが改善すべきだったと思いますか?

ルソーに関するオススメ書籍まとめ

↓管理人がエミール理解にあたって参考にした本がこちら。用語の混同が多く一見矛盾しているように思えるルソーの主張を、他の著作とも関連付けながらわかりやすく解説している良質な入門書です。

↓文庫版エミール。とてつもなく長いですが、断片的に読んでも得られるものはあるかと思います。

↓ざっとルソーの全体像を理解するのにおすすめな入門書です。


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