人間は自然に還るべき?:ルソー『人間不平等起源論』

ルソーの著作について立て続けに記事書きます。

さて、今回扱うのは『人間不平等起源論』(仏: Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes、英:Discourse on Inequality)です。高校の教科書だと、これと『社会契約論』『エミール』あたりがルソーの主著として紹介されているのではないでしょうか。あとは『告白』あたりか。

※2018年3月7日に公開した記事ですが、同年3月28日に一部修正しました。

『人間不平等起源論』の概要

『人間不平等起源論』は、当時(18世紀、絶対王政期)のフランスの格差社会を批判し、「なぜこうも人間は不平等になったのか」という問題に取り組む論文です。そして、端的に言うと、「人間は自然状態では平等だったのに、より豊かな生活を求めて社会を作り出したからどんどん不平等になってきたのだ」というのが彼の答えです。以下部分がほぼ要約になっているので引用します。

これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、我々は、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。従って富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二期の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人との奴隷との状態が容認されるのであるが、この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるに至るのである。

出典:ルソー著、本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波文庫、2012年、pp.121

要するに、人間社会は

土地や財産の所有→貧富の差→貧者が富者に従属する代わりに富を分配(ここで強者と弱者の関係)→主従の関係が法律により固定化

という過程を経てきたというのがルソーの主張です。続けて、ルソーはこう述べます。

・・・不平等は自然状態においてはほとんど無であるから、不平等は、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり、そして最後に、所有権と法律との制定によって安定し正当なものとなる、ということになる。また、ただ実定法によって容認されている人為的不平等は、それが自然的不平等と同じ釣り合いを保って一致しないときはいつでも自然法に反する、という結論も出てくる。この区別は、すべての政治社会にある人民の間にはびこっているような種類の不平等について、どう考えるべきかを十分に決定してくれる・・・多数の人々が飢えて必要なものにも事欠いているのに、ほんの一握りの人他にには余分なものがありあまっている、ということは、明らかに自然法に反している・・・

出典:同上、pp.130~131(下線は管理人)

最低限の衣食住すら満足に満たせない人が多くいる一方で一部の人が贅沢しているのはおかしい。このような捉え方は、現代日本に生きている我々からしたら「何を当たり前のことを」と言いたくなるようなものですが、国王の支配が絶対だった当時の社会には非常に衝撃的なものでした。こうした考え方に影響されて、平等を実現することを目指したフランス革命が王政を打ち倒していくことになります。

当時寄せられた反論とルソーの回答

ルソーの著作は、当時の常識を打ち破り、のさばっていたエリートたちを攻撃するようなものが多かったので、人々に大きな影響を与えるとともに、多くの批判を浴びるのが常でした(2018年3月28日追記:ちなみに彼の最初のヒット作である『学問芸術論』も、めちゃめちゃ叩かれることによって有名になっています)。『人間不平等起源論』もその例に漏れず、多くの反論を寄せられることになります。以下は、ルソーのことをあまり好きではなかったジュネーヴの博物学者フィロポリスからの反論です。

人間のさまざまな能力に直接に由来することは全て、人間の自然[本性]に由来するといわれるべきではないでしょうか。ところで、社会状態が人間の諸能力に直接由来することは十分に証明されうると私は信じています・・・もしも社会状態が人間の諸能力から生じるものなら、社会状態は人間にとって自然なのです。従って、それらの能力が発達するにつれて、この状態を生み出したことを嘆くのは、神が人間にそのような能力を与えたことを嘆くのと同じように無分別をまぬがれないでしょう。

出典:同上、pp.201

ヨーロッパ系の言語では「自然」という言葉(たとえば英語のnature)は「本性」、すなわち物事が本来持っているもの、という意味を表します(マイケル・ジャクソンが好きな方は”Human Nature”を思い浮かべてください)。そのような視点からフィロポリスは、「社会状態を生み出すことすら、人間の自然(本性)に由来しているのだから、不平等を生み出すからと言ってそれを非難するのはおかしいじゃないか」という反論をしているのです。

それに対するルソーの回答が以下の通りです。

私の考えでは、社会が人間種にとって自然なのは、老衰が個人にとってそうであるのと同じであること、人民にとって芸術や法律や政府が必要であるのは、老人にとって松葉杖がそうであるのと同じであることを、どうか忘れないでいただきたい。その差異は、せいぜい、老年の状態が、人間の自然だけに由来するのに対して、社会状態は、人類の自然に由来することです。ただし、あなたの言われるように直接にそうなるのではなく、私が証明しましたように、単に、ある種の外的状況に助けられてそうなるのです。しかもその状況は存在することも、存在しないこともありえたし、あるいは、少くとも、もっと早くも遅くも起りえたのであり、従ってその歩みを早めることも遅らすこともありえたのです・・・社会状態は、人間が到達を早めることも遅らすことも自由にできる極限の終点をもっているのだから、人々に、あまりに早く進む危険と、彼らが種の完成と取り違えているある状態(コンディション)の悲惨とを示してやることは無益ではないのです。

出典:同上、pp.209~210

上記の議論を図にまとめるとこんな感じです。どちらもお互いの言い分はわかるとした上で、さらに大きな争点から反論している構造ですね。

さて、一連の議論の最後にルソーから出て来た言葉、すなわち人間が「種の完成と取り違えているある状態の悲惨」について検討してみましょう。ルソーは、社会化の末行き着く先をどのように捉えているのでしょうか。ルソーは、個人にとっての老衰を、人類にとっての社会化のアナロジーとして用いています。

身分が法制度によって固定化されていくにつれて、格差が拡大し、多くの人が貧困にあえぐようになる。直接的には、そう言うことがルソーの言う「悲惨」であると捉えられるでしょう。そして、生活必需品を求めた貧者同士の、あるいは貧者から富者への暴力が頻発するというところまでもしかしたら想定していたかもしれません。

批判:社会化を遅らせる必要はない

私は、たとえルソーの言うように人類の社会状態が人間の老衰に匹敵するとしても、それでも人間はためらわずに社会化を進めることが許されると思います。なぜならば、老人は誰かに松葉杖を用意してもらわないといけないのに対して、人類は自分で法律や政府を作れるからです。老衰は、なるほど、自分でできることが少なくなっていくと言うことで、なるべく遅らせた苦なるものなのかもしれません(このことの是非はここでは扱いません)。それに対して、人類全体は、自らの社会化が生み出した病理(ここでは不平等)を、またさらなる社会の進歩によって克服することができます。したがって、老衰が死をもたらすようには、社会化が人類に永久の「悲惨」をもたらすことはないのではないでしょうか。

現に、ルソーがその社会状態を批判した国フランスでは、ほどなくして絶対王政は打ち倒され、少数の人間に富が握られて大多数の人間が貧困を強いられる時代は過ぎ去りました。そして、フランス含む先進国では現在、格差こそなくならないものの、生活の最低限を満たせない状態を克服するための会保障制度が整えられています。うまくいけば、今後、世界中の国々でこうした法整備が実現していくでしょう。うまくいけばですが。

以上のような考察から、私は、社会化は、確かに自然状態には無かった不平等を生み出すが、より推し進めていけば自然状態以上に望ましい状態に達することができるのではないかと考えます。

おわりに

上記の通り私はルソーの「自然状態が良かった」思想には全面的には賛成できないのですが、当たり前に整っていて、普段正しいと思って従っている法制度に対して疑問を投げかけ、「期限からこんなの正しい姿ではない、おかしいぞ?」って疑う姿勢は大切だと思います。現状私たちが無批判に受け入れている法制度にも、立ち止まって考えるとおかしいものがあるかもしれません。『人間不平等起源論』は、そういった社会の理不尽を見つけ出すヒントになり得るという意味で、21世紀の先進国に生きる私たちが読んでも意味のある古典である気がします。


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