合格体験記としての『方法序説』:教養の意味ってなんだ?

「我思う、故に我あり」

のフレーズで有名なルネ・デカルト(1596-1650)。大陸合理論の祖と言われ、以降の哲学や自然科学に絶大な影響を及ぼした彼は、主著『方法序説』の第一章でこう書いています。

わたしは子供のころから文字による学問[人文学]で養われてきた・・・これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた・・・けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。

出典:デカルト著、谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫、2017年、pp.11

若き日のデカルトは当時トップクラスの大学で人文学(歴史、哲学、文学など)を学んでいました。そうした古典を読んで身につける教養に「強い願望をもっていた」彼が「まったく意見を変えてしまった」のはなぜなのか、そして彼の考え方はどう変わったのか?

今日はデカルトが唱える教養の意義から出発して、21世紀を生きる我々がいかに勉強を進めていくべきかを考えていきましょう~!

『方法序説』って?

方法序説』(仏: Discours de la méthode)とは、デカルト主著のうち初期のもので、彼がが真理の探究方法、言い換えれば学問における研究の方法を確立する過程書いた本です。誤解を恐れながら言えば、「私は学校の授業はこんな風に受けて、自分ではこんな勉強をしたら、真理を発見する方法を確立できました!みなさんも勉強や研究をするときにはこういうところは気をつけたほうがいいと思います!」という合格体験記です(受験ではありませんけどね)。

・・・わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである・・・そこには真似てよい手本とともに、従わないほうがよい例も数多くみられるだろう。

出典:同上、pp.11

さて、そんな『方法序説』のどこに焦点をあてて紹介するか。同著の中で私が一番好きな箇所は、いわゆる「我思う、故に我あり」(仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)を発見する過程と、それに続く神の存在証明なのですが、そこはぜひみなさん自身に原文(というか日本語版)のダイナミズムを味わっていただくことにして、今回は同著の第1章を中心に、デカルトが若い時どのように勉強したかをみなさんに紹介し、そこから21世紀における効率的・効果的な学びの方法について考えていきたいと思います。

若き日のデカルトの勉強

冒頭の引用部分にもあげたように、デカルトは学校にいるときこそ熱心に勉強するものの、それを全て終えた途端それ以上の人文学の勉強をやめてしまいます。なぜ彼の心境はこのように変化したのか。もう少し本文をたどってみましょう。

わたしがいたのはヨーロッパでもっとも有名な学校の一つで、地上のどこかに学識ある人びとがいるとすれば、この学校にこそいるはずだとわたしは思っていた。わたしはそこで他の人が学んでいたことは全て学んだ。しかも、教えられていた学問だけでは満足せず、もっとも秘伝的で稀有とされている学問(占星術や錬金術、手相術、光学的魔術など)を扱った本まで、手に入ったものは全て読破してしまった・・・以上の理由で・・・先に人びとがわたしに期待させたような学説はこの世に一つもないのだと考える自由を、わたしは選び取ったのである。

出典:同上、pp.12

教科書読んだし授業も全部聞いたし発展問題も全部解いたけど、学校の勉強なんてつまんなかったよ」くらいの意味でしょうね。「学校の勉強なんてなんの役に立つんですか?」と言って勉強しない学生の何十倍もかっこいいと思います(もちろん、だれもがここまで勉強するべきだとは思いませんが笑)。

そうして、デカルトは大学を卒業したのち、「世界という大きな書物」で学ぶために、旅をして、世界各地の人と交流をもち、様々な体験をすることで、真理探究の正しい方法を見出そうとします。以上が、デカルトの青春時代の過ごし方です。

しかし、デカルトは、「読書が無意味だ」と思っていたわけではありません。彼が学校で教わった人文学、すなわち、本を読んで身につける教養についてデカルトがどう考えていたのかをもう少し詳しく見ていきます。

デカルトにとっての教養の意味

デカルトが提示した教養(正確には人文学)の意義は以下の通りです。

・・・わたしは、語学ばかりか、古い本を読むことにも、そこに書かれた歴史や寓話にも、もう十分に時間を費やしたと思っていた。というのも、ほかの世紀の人びとと交わるのは、旅をするのと同じようなものだからだ。さまざまな民族の習俗について何がしかの知識を得るのは、我々の習俗の判断をいっそう健全なものにするために良いことだし・・・自分たちの流儀に反するものは全てこっけいで理性にそむいたものと考えたりしないためにも、良いことだ。

出典:同上、pp.13~14
(下線は管理人)

ほかの世紀の人びとと交わるのは、旅をするのと同じようなもの」。非常に説得的です。旅、というのは旅行だけでなくて、留学とか、海外で生活をすることなども含めて考えられるでしょう。旅をして空間的に異なる位置で生活している人の価値観を知るように、書物を読んで時間的に(そして多くの場合空間的にも)異なる位置にある人びとの価値観を知ることで、自分の価値観を相対化し、考え方を広げられるということです。

続けてデカルトは、書物を読むだけではなぜ不十分なのかを述べます。

けれども旅にあまり多くの時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。また、過去の世紀になされたことに興味を持ちすぎると、現世行きに行われていることについて往往にしてひどく無知なままとなる。

出典:同上、pp.14

例えば、歴史を勉強するのはいいことです。スパルタについて勉強すれば、どのようにして強い国家を作ることができるのかを学ぶことができるでしょう。しかし、スパルタばっかり勉強していて全然ニュースを見なかったら、得た知見を現世に応用することができません。このように、旅(書物)は大事だが、そればかりを勉強していては、実際に得た知見を生かして何かをすることができません(その道の研究者であれば別ですが)。

このように、本を読んで知見を広げるのは大切だが、本を読んでばかりで現実世界に触れることを忘れてはいけないというのが、デカルトの教養に対する考え方でした。

21世紀、我々はいかに学ぶべきか?

さて、以上のデカルトの言葉を踏まえて、私たち21世紀を生きる人間はどのような勉強をするべきなのか。言い換えれば、現代社会を渡るにあたって必要な知識を身につけるためには、どのような勉強をしたらよいのか。

私は、次のような形が理想だと思います。

(1) 若いうちに哲学や歴史などの伝統的な教養を猛スピードで身につける。

(2) 最新のニュースや研究を耐えず追い続ける。できればなるべく多くの現場を見る。

まず古い本、次に現世、という意味では、デカルトがたどった道とそこまで変わらないかもしれません。ポイントは(2)です。耐えず最新の情報を仕入れ続ける必要があると思います。

新石器時代の農耕革命、18-19世紀の産業革命、そして20世紀の情報革命にいたる流れから明らかなように、人間社会の変化はどんどん加速しています。おそらく、デカルトが生きていた17世紀とは比べ物にならないくらい社会の変化は目まぐるしいのではないかと考えられます。10年前は存在していなかったLINEが、今や若い世代にとって不可欠なツールとなっていることなどは、その証拠でしょう。

ですから、現代社会に生きる我々にとっては、デカルトの言うように「旅にあまり多く時間を費やすと、自分の邦で異邦人になる」だけでなく、「旅にちょっと時間を費やしている間に自分の邦がどんどん様変わりしてしまう」のが実情だと思います。

一方で、昔から変わらない人間社会の真理は、古典から学ぶのが効率的です。有名な古典というのは多くの場合、読む価値があると思われ続けてきたから残っているので、いつの時代にも変わらず必要な真理や教訓が多く含まれています。そうした普遍的な真理は、自分で現世を観察して感覚的に身につけるのも大事ではあれど、本をたくさん読んだ方が手っ取り早いでしょう。ですので、なるべく早く、古い本をたくさん読んで基礎体力を身につけ、その上で現実世界を見つめることで、実用的な知識を効率良く身につけていけるのではないかと考えます。

おわりに

今回は『方法序説』の内容の一端を紹介してきましたが、デカルトは哲学以外にも学問上の成果を数多くあげています。例えば、x+x2が許されることの証明(当時は「長さと面積が足せるわけないだろう!!」と言われて禁止されていた)などはものすごくかっこいいので、気になる方は調べてみてください!

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