増えるカタカナ語を哲学する:フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』を参考に

アカウンタビリティー、イシュー、リスク、コンサルタント、マネージ、カオス、リーズナブル、ロイヤルストレートフラッシュ……

私たちの生活に溢れる外来語。ときどき、「意味がわからない」「かっこつけ」「原義を理解せずに使っている」などなど、外来語の乱用に対する苦言もよく耳にします。

ただ、この「外国語が溢れている」という状況は、表面的に「イライラする」だけではなくて、哲学的観点から見ても嘆かわしい状態であると捉えることができます。

今日は、カントの教え子であり、シェリングヘーゲルの師であるドイツ観念論哲学者フィヒテと一緒に、日本語が置かれている現状について考えてみましょう〜

(↑リンクはブログ内の関連記事に飛びます)

『ドイツ国民に告ぐ』

高校の世界史か倫理どちらかの授業で、『ドイツ国民に告ぐ』という本の名前を聞いたことはないでしょうか?

今回は、この本に書いてあることを参考に、カタカナ語について考えていきます。ですので、かんたんに本の紹介をさせてください。

本の概要:演説の書き起こし「ドイツ人、まとまれ!」

これは、ドイツ観念論の哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテがベルリンで行った演説の書き起こしです。

時代はフランス皇帝ナポレオンの絶頂期。ドイツは彼の率いる軍隊にこてんぱんにされ、ベルリンはフランス軍の占領下。民衆はフランス軍にビクビクしながら生活し、ナポレオンに抗議した者は銃殺されるという有様でした。

このような屈辱的な状況にあって、ドイツを立て直すために「できる!できる!君ならできる!」と民衆に呼びかけたのが、当の『ドイツ国民に告ぐ』演説にほかなりません。

「ドイツ人としてまとまって、人類に理想の世界をもたらそう」というフィヒテのメッセージに触発され、それまでバラバラの領邦国家(連邦みたいなもの)であったドイツは、ひとつの国家としてまとまって力を伸ばしはじめます。

その後、ナポレオンを破り、工業大国としてヨーロッパにおけるイギリス一強状態を切り崩し、二度の大戦で大陸を暴れまわり、現在ではEUを牽引する強国ドイツの歴史は、この演説に始まったと捉えることもできます(その間ユダヤ人虐殺しちゃったりしてるので、いいことばかりではありませんけどね)。

ドイツ人とは? → フィヒテ「ドイツ語を話す人」

でも、当時300もの領邦国家でバラバラに存在していた”ドイツ人”という民族を、フィヒテは何を基準にして統一せしめたのでしょうか?

住んでいる土地でも、宗教でも、(当然周りも白人だらけですので)人種でもありません。

それは、言語でした。

フィヒテは、ドイツ人はドイツ語を話すという理由によって、周囲の民族よりも優れていると主張します。それゆえ、人類にとって理想の世界を作り上げるためにリーダーシップを取れるのはドイツ人をおいて他にいないというのです。

他の言語ではなくドイツ語を話すということに、いったいどんな意味があるというのでしょうか?

フィヒテがドイツ語を特別視した理由:外来語の少なさ

簡単に言うと、フィヒテは、ドイツ人が正真正銘の母語を話しているというところに、他のヨーロッパ人、より正確には他のゲルマン民族に対する優位性を見出しました(外国人=ヨーロッパ人であるところ、昔の人の世界観って狭いですよね笑)。

他の多くのゲルマン民族が新ラテン語由来の言語、いわば外来語を自分たちの言葉としているのに対し、ドイツ人はドイツ人の歴史とともに育まれてきたドイツ語を話している。フィヒテが着目したのはこの点でした。外国語を借りてきたのではない、現在進行形で育ちつつある言語を用いていることに、ドイツ人の優位性を見たのです。

(補足:ほかのヨーロッパ語といえば、たとえば英語なんかラテン語、古ノルド語、フランス語など外来語がめちゃめちゃに入り乱れています。発音規則が混沌としているのはそのせいです。学習者としてはたまったものではありません)

ご存知の通り、言語というのは使われていくうちにその意味が変化していくものですが、長い歴史の中で民族がその民族固有の母語を話し続けることによって、言葉の変化が継続し、それがその民族の精神的教養を向上させる、とフィヒテは考えました。「精神的教養」が何を差すのかは定かではありませんが、おそらく、フィヒテが物事の本質だと捉えていたもの、何か霊的なものや神的なものへの理解を深めるという意味に捉えておいてあまり間違いはないと思います。それがわかりにくければ、ものすごく簡略化して民族の構成員が人格的に成長するという意味に捉えてもいいでしょう(ほんとうはダメですが)。

日本語で例えてみよう♪

あまり抽象的になってはいけないので、具体例を挙げて説明します。

日本語の「こころ」という言葉はもともと「心臓」という意味を表しており、次第に精神的なものを表すようになったといわれています(出典:心(こころ) – 語源由来辞典)。このように、生きた言語は常に変化して行くものであり、とくに、具体的に知覚されたものから抽象的なものへと変化していく習性があります(フィヒテの言葉を借りれば、「感覚的」なものから「超感覚的」なものへ)。そして、繰り返しになりますが、生きた言語を持っている民族は、このような言葉の進化によって精神的教養を身につけていくことができるというのがフィヒテの主張です。

一方で、例えば日本人が「こころ」という言葉の意味を「心臓」から「精神」へと変化させる前に、英米人がやってきて、高度に進歩した状態にある”heart“という単語を教えたとしましょう。”heart”には、「心臓」のほかに「気持ち」「気分」「愛情」など、感覚的なものから超感覚的なものまで様々な意味内容が含まれています(heartの意味・使い方 – 英和辞典 Weblio辞書)。

このような高度な単語を一旦輸入してしまうと、「精神」的な意味内容を表す和語を作る必要がなくなるので、「こころ」という単語はそれ以上進化することをやめます。日本人にとっての母語が抽象的意味内容を表すことがなくなるのです。しかし、一方で、輸入された英単語”heart”によって日本人が「精神」的なものへの理解を深めることができるかというとそうでもありません。外来語は、自分たちの民族の歴史とともに育まれてきたものではありませんから、いつまでたっても「もらいもの」であり、日本人はこれを真に感覚として理解することはできず、解説されて暗記するほかないのです。

このようにして、高度な外国語を輸入してしまった民族は、超感覚的あるいは抽象的な内容を表すものとして母語を成長させることもできず、かといって、外国語によってそのようなものへと到達することもできないという八方塞がりの状態になるのです。これが、民族が精神的教養を身につけることができなくなった状態です。

同時代の他のゲルマン民族は、すでに高いステージに達した外国語を真に理解することもなく使っているのに対し、ドイツ人は自分たちで育んできた、そして今も育み続けているドイツ語を話す。ここに、フィヒテはドイツ人の優位性を見たのでした。

まとめ

議論が複雑になったので、まとめます。やや乱暴に要約すると、言語に関するフィヒテの主張は以下のようにまとめることができるでしょう。

<フィヒテが主張する、ドイツ人の他ゲルマン民族に対する優位性>

ドイツ人:生きた言語としてのドイツ語を話す。

他ゲルマン人:死んだ言語としての外来語である新ラテン語を話す。

生きた言語
→民族の歴史とともに進化する。民族は、その言葉の進化に伴って精神的教養を身につけることができる。

死んだ言語
→進化を止めている。それを採用した民族は、その瞬間から精神的に向上しない。

本題:やまとことばは死んでいる

やっと、本題です。カタカナ語が溢れている日本語について考えます。

フィヒテの議論に従えば、日本人はもう死んだ言語を話していると言えます。

もちろん、現在総体として「日本語」と呼ばれているもの、すなわち和語・漢語・外来語を全て含めた日本語は、日々新しい意味内容を表すためにせっせと進化を続けています。ですが、ほんとうのほんとうに日本民族の母語であるやまとことば(和語)に議論を限定するとどうでしょうか?新しい概念を表現したいときに我々日本人がやっていることは、カタカナ語を作るか、よくて漢語を作るかくらいです。「こころ」の意味が「心臓」から「精神」を表すようになったような進化が、今後やまとことばにおいて起こるとは思えません。やまとことばは変化を止めてしまった言語、死んだ言語なのです。

カタカナ語が飛び交う現状に日本人自身がイライラしていますが、フィヒテがもし今の日本人を観察したら、「あーあ、こいつらはもう精神的に成長できない」と絶望するのかもしれません。

とはいえ、母語が死んでしまっていることが、フィヒテの言うほどに深刻な問題かどうかは議論の余地があると思います。彼の言う「精神的教養を身につける」ことは、言語以外の手段(瞑想するとか、自然に触れるとか)によっても可能な気がしませんか?また、非常に古くから日本に溶け込んでいる漢語は実質母語の一部とも言えるので、これらをやまとことばの代用品として用いて、超感覚的なものへとたどり着くことができるかもしれません。

おわりに

今回は、外来語が溢れる日本語の現状について、フィヒテの言語論からすればどのような捉え方ができるのかを考えてみました!今後も、新しい概念を表現するためには外来語が用いられ、これ以上やまとことばが進化することはないのかもしれません。ですが、せめて今あるやまとことばを民族の母語として守れるように、和語・漢語・外来語のそれぞれとうまく付き合っていきたいですね!

今回紹介しましたのは、全14講からなる『ドイツ国民に告ぐ』の第4講「ドイツ人と他のゲルマン民族との間の重なる相違」における議論です。同講もかなり興味深いことを言ってはいますが、実は、より現代的意義を見出せる箇所として第14講「結び」がありますので、そちらについてもそのうちまとめたいと思います!

第14講は現代日本人にとって読む意義が非常に大きく、ほんとうはブログで中途半端に引用するよりもぜひ全文を読んでいただきたいところですので、気になる方は書店や図書館で探してみてください!下にもリンクを貼っておきます〜

おまけ

おまけとして、フィヒテに言わせれば”死んだ”言語ではあるものの、まだまだやまとことばも現役だなと思わせてくれる動画を紹介します。急増するカタカナ語にうんざりしている方は、一度このように身の回りの事柄を和語で表してしまう遊びをしてみてはいかがでしょうか?(笑)


最後までお読みいただきありがとうございました!!記事の更新等はTwitterで告知しておりますので、よろしければ下の「フォローする」のアイコンからフォローお願いします〜♪

スポンサーリンク