【死因はキス】ドイツ観念論の哲学者まとめ【思想の解説はナシ】

「凡さんす」(@academicocktail)です!

この記事では、ドイツ観念論と呼ばれる思想に分類される4人の哲学者(カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル)の人物像人間関係を解説します!

哲学的な難しい話はあんまり入れてないので、気軽に読んでみてください〜♪


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ドイツ観念論とは?

今回触れるのは、ドイツ観念論と呼ばれる学派に属する哲学者達の人生です。

一応、最初に「ドイツ観念論とはなんぞや?」というところを簡単に紹介しておきますね。

ドイツ観念論(ドイツかんねんろん、ドイツ語: Deutscher Idealismus)は、18世紀末から19世紀半ばに、ライプニッツやフュームの流れを組むイマヌエル・カントの『純粋理性批判』への反動として、プロイセン王国などドイツ語圏の主にルター派地域において展開された哲学思想であり、ロマン主義と啓蒙時代の政治革命に密接に関連する。

ドイツ観念論 – Wikipedia

と、wikipediaでは解説されていますが、正直あんまりイメージわかないですよね?(笑)

今回はあんまり哲学的な話題は関係ないので、だいたいフランス革命やナポレオンくらいの時代に活躍したドイツの哲学者の人たちだと思っていただければOKです。

それでは、ドイツ観念論の代表的哲学者であるカントフィヒテシェリングヘーゲルの人物像や人間関係を追っていきたいと思います。

カント:伝記のネタがない偉人

エマニュエル・カント(写真:Unidentified painter/Wikimedia commons Public domain)

ドイツ観念論最初の登場人物はエマニュエル・カント(1724-1840)です。哲学者の中でもかなり有名な方なので、名前だけなら聞いたことのあることがあるという方は多いのではないでしょうか?

正確に言うと、カントの哲学はドイツ観念論とは区別される、批判哲学というものです。このカントの批判哲学を乗り越えようとして発展したのがドイツ観念論なので、しばしばカント→ドイツ観念論のセットで説明されます。

カントは非常に几帳面な人物として有名です。毎日決まった時間に散歩に出ていたのですが、あまりにもカントの行動パターンが正確だったので、周囲の人はカントの散歩を見て時計を調整していたという逸話まで残っています。

また、生涯を通してほとんど故郷のケーニヒスベルグから出ず、ひたすら研究に打ち込んでいました。政治的な論争などもしておらず、恋愛も全くしていないので、面白い伝記が書きにくい偉人としても知られています。

フィヒテ:体を張る哲学者

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(写真:Wikimedia commons Public domain)

ドイツ観念論2人目の登場人物はヨハン・フィヒテ(1762-1814)です。正確にドイツ観念論者として分類される最初の人物になります。

職業は彼と同じ哲学者(大学教授)ですが、毎日ご飯を食べて散歩して研究するだけだったカントとは違い、

・川に飛び込んで、溺れた少年の命を救う。

・フランス軍に殺されるリスクを伴いながら、ナポレオン占領下のベルリンで演説(『ドイツ国民に告ぐ』)。結果、ドイツ国民を奮い立たせる事に成功し、敗戦直後のドイツが当時最強クラスの工業国にまで成長する。

・妻の病気が回復し始めたのに歓喜して思わずキスした結果、病気が感染して死亡する。

などなど、エモみの深い人生を送っています。

カントとフィヒテの出会い:ドイツ観念論の始まり

後にドイツ観念論と呼ばれる哲学が始まったのは、カントとフィヒテの出会いからでした。ときは1791年。当時まだ無名の貧乏家庭教師だった29歳のフィヒテがカントの自宅を訪れるところから物語は始まります。

その時のエピソードがこちら。

フィヒテはその後わずか数週間後で本を書き上げ、学者の間でバカ売れ。こうして、彼は一躍有名になり、カントの後継者として噂されるようになりました。

…という、頭がいいのか悪いのかわからないようなフィヒテのエピソードです(笑)

こうしてカントとフィヒテの師弟関係は始まったのですが、のちに、フィヒテはカント哲学を吸収した上で、その弱点を克服することを目指しました。これが、シェリング、ヘーゲルへ受け継がれるドイツ観念論の始まりです。

シェリング:15歳の大学生

ドイツ観念論3人目の登場人物が、フリードリヒ・シェリング(1775-1854)です。

フリードリヒ・シェリング(写真:Wikimedia commons Public domain)

1775年生まれのシェリングは、イエナ大学でフィヒテが教えた学生の一人です。

今でこそ微妙な知名度に落ち着いてしまっていますが、若い頃の彼は天才として有名でした。

あまりにも優秀なために通常よりも3年早く15歳で大学の入学を認められ、17歳で学位論文を書いています。

20歳になったシェリングはフィヒテの哲学に興味を持ち、それを学んだのちに『哲学の形式の可能性について』および『哲学の原理としての自我の可能性について』という2つの論文を書きます。これらの出来があまりにも素晴らしかったので、フィヒテ自身が大絶賛。フィヒテはシェリングを自分の真の後継者として認めました。

フィヒテvsシェリング:自然をめぐる見解の相違

しかし、わずか2年後にはシェリングはフィヒテの哲学に納得できなくなります。それは、自然に対する見解を巡って彼らが対立したからでした。

ものすごーーーーく単純化していうと両者の見解は以下の通りです。

<「自然」をめぐるフィヒテとシェリングの対立>

フィヒテ:自然は人間が克服していく対象

シェリング:人間は自然の一部であり、どちらも絶対者(≒神)の自己表現

二人の対立が決定的になったのは、シェリングが『私の哲学体系の叙述』という論文を発表したときでした。「私の哲学体系」つまり、「フィヒテ先生とは違ったオレ自身の哲学」ということです。

以降2人は、お互いが自分の哲学が正しいと信じて手紙で相手の説得を試み、しかもどっちも相手の文章を真面目に読まないという終わりのない文通へ突入します。「白ヤギさんからお手紙ついた。黒ヤギさんたら読まずに反論した」(以下無限ループ…)状態です。

こうして、フィヒテとシェリングは哲学上の対立関係に至るだけでなく、プライベートでも決裂してしまいました…

ヘーゲル:哲学界では後輩が最強

ドイツ観念論最後の登場人物がゲオルグ・ヘーゲル(1770-1831)です。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(写真:Jakob Schlesinger/Wikimedia commons Public domain)

 1770年生まれのヘーゲルは、シェリングの同世代にあたります。

5歳年下のシェリングよりも出世は遅く、若い頃は大して目立っていませんでした。しかし、哲学は、後輩が先輩を乗り越えることによって発展してきた学問です。登場の遅かったヘーゲルだからこそ、カント、フィヒテ、シェリングの思想を吸収したうえで彼らを乗り越え、ドイツ観念論の大成者としてその名を後世まで轟かせる事になりました。

シェリングとヘーゲル:大学時代の親友

シェリングとヘーゲルの関係は良き学友として始まります。シェリング、ヘーゲル、そして彼らと同じテュービンゲン大学の学生であった詩人のヘルダーリンの3人がイツメンとして、議論や酒を交わす平和な大学生活を送っていました。

また、ヘーゲルはシェリングとフィヒテの哲学上の立場が微妙に異なっていることに本人たちよりも先に気づき、『シェリングとフィヒテの差異』という本を書いて、シェリングの方が正しいと主張しました

ヘーゲルにとってもシェリングは頼もしい味方でした。と言うのも、早くから成功したシェリングと仲がいいことは、ヘーゲルのキャリア上の追い風だったからです。ヘーゲルがのちに出世できたのには、シェリングと繋がっていたことも少なからず影響していました。

ヘーゲルのシェリング批判:「全ての牛が黒くなる」

こうしてプライベートでも哲学上でも仲良しだったシェリングとヘーゲルですが、それも長くは続きませんでした。

ヘーゲルが、自身の代表作『精神現象学』においてシェリングを痛烈に批判したからです。

シェリングの哲学は、上記の通り、「人間も自然もみんな実は同じもの」とする立場でした(これを同一哲学、あるいは自然哲学といいます)。これに対しヘーゲルは次のように反論します。

ヘーゲルは同書の前書きにおいて、シェリングの哲学では「全ての牛が黒くなる」=「世界のありかたが何もわからなくなる」とコメントしました。「世界のありかたを説明するための哲学なのに、世界のありかたを説明できない」という真っ向からの批判であった上、ヘーゲルの言っていることがなかなか正論だったため(笑)、シェリングは大きなショックを受けることになります。

実は、ヘーゲルの意図としてはこの批判はシェリング本人ではなくシェリングを支持する学者に向けられたものであり、ましてやシェリングを人格攻撃するつもりなど毛頭なかったらしいのですが、それでも、この批判以降シェリングはヘーゲルのことをよく思わなくなりました。

以下は、銭湯でヘーゲルと再会したシェリングが妻に送った手紙からの引用です。

想像してもみたまえ。昨日、湯に浸かっていたら、どことなく不愉快な、どこかで聞いたことのある声が、私を呼んでいるのだ…それはベルリーンのヘーゲルだった……彼はすこぶる慇懃で、われわれの間には何事もなかったかのように並外れて友好的だった……当たり障りのない会話を二、三度交わして夕方を過ごした。まだ私の方から彼を尋ねることはしていない。

出典:高山守、藤田正勝編著『シェリングとヘーゲル シェリング論集 1』 晃洋書房、1995年、p.113

「何事もなかったように」つまり、シェリングにとっては「何事かあった」ということです(笑)

こうして、シェリングとヘーゲルは哲学上で対立するのみならず、プライベートでも親交を途絶えさせてしまったのでした…

まとめとオススメ記事

今回は、ドイツ観念論哲学者4人の人物像や関係性を紹介しました!

哲学者だけではなく、ある人の考え方は、その人の経験してきたことや関わってきた人々に強く影響されますので、ある人の言っていることとその人の人物像を照らし合わせて眺めることで、また新しい発見があるかもしれませんね!

今回は哲学の内容自体にはあんまり触れませんでしたが、本記事を読んでちょっと興味を持った方は、以下の記事からそれぞれの学者の思想をのぞいてみてください!
<カント>
科学はなぜ可能なのか?カント哲学の「物自体」をわかりやすく

カントの批判哲学とは?思想上の立場をわかりやすく解説

カントの道徳哲学:人格を目的として扱う「王国」?

人間に自由意思はある?カント哲学が出した答えとは?

神は実在する?YesでもNoでもないカントの答えとは?

<フィヒテ>
増えるカタカナ語を哲学する:フィヒテ『ドイツ国民に次ぐ』を参考に

<シェリング>

シェリングの同一哲学とは?専門用語をなるべく使わず解説

過去・現在・未来とは何か?シェリング哲学の出した答え

<ヘーゲル>
「夫婦を超えてゆけ」とは?星野源「恋」のヘーゲル的解釈


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