【あなたはどっちの立場?】『嫌われる勇気』に反論してみた

こんにちは!「凡さんす」(@academicocktail)と申します。政治学や哲学を勉強している大学4年生です。

『嫌われる勇気』、読んだことありますか?

2013年に出版されて以来売れ続け、2018年5月31日には累計発行部数が176万部を突破している大ヒットの自己啓発本です。

とてもいい本なのですが、今回は、あえてこちらの内容に反論してみようと思います♪

読んでみたけど「納得できない」という方にはもちろん、同書を読んだことのない方にもわかるように書きましたので、ぜひ読んでみてください!

※記事は2分ほどで読み終わり、読み終わった時には、『嫌われる勇気』が提示する「目的論」について、新たな視点から考えられるようになります。

<前置き>

『嫌われる勇気』はアドラー心理学にのっとった自己啓発本ですが、私はアドラー心理学についての知識を持ち合わせていないので、以下はあくまで『嫌われる勇気』をベースにした議論であり、本家のアドラー心理学とは関係していません。

決定論 vs 目的論

「嫌われる勇気」の序盤で出てくるキーワードとして、「決定論」と「目的論」があります。

「決定論」とは、過去の出来事により現在や未来が決まっていると考える立場であり、『嫌われる勇気』(アドラー心理学)はこれに反対する「目的論」を主張します。

まず、それぞれの立場について詳しく解説しますね。

決定論:過去の原因によって現在や未来が決まっていると考える

「決定論」では、過去の経験(トラウマなど)から、現在の感情が作り出され、行動が決定されると考えます。

有名どころでは、フロイトという心理学者がこの立場に立っています。

<決定論>

過去の出来事 → 現在の感情 → 現在(未来)の行動

実際に本で挙げられていた具体例は、以下の通りです(p.25)。

幼い頃に両親から虐待を受けたトラウマ → 外出しようとすると不安を感じて動悸や手足の震えが起こる → 家に引きこもるようになる
『嫌われる勇気』は、この「決定論」に反対するところから出発します。

目的論:何か目的があって、現在の感情や行動が作り出されると考える

「決定論」に対して、アドラー心理学が主張する「目的論」は、「過去の原因ではなく、本人が意志する目的から、感情や行動が作り出される」と考える立場です。

<目的論>

達成したい目的 → 現在の感情 → 現在(未来)の行動

「目的論」に立った場合、先ほどの引きこもりの例は、以下のように説明されます。

家に引きこもっていれば、両親が心配してくれると考える → 「不安」という感情を作り出す → 家に引きこもる (→ うまくいけば両親に心配してもらえる)

つまり、

・一見すると不安で外に出られないように見えるし、本人もそう錯覚しているけれども、実は「家に引きこもりたい」という本人の意志が先にあって、「不安」という感情を作り出している。

・そして、本人がそのことを自覚し、自ら変わろうとする意志を持てば、不安に苛まれないし、外にも出られるのである。

これが、「目的論」の考え方になります。

このようにして、現在の感情や行動は過去に縛られてはおらず、「人は変われる」(p.38)と主張するのが、アドラー心理学の教えでした。

目的論への反論:その「目的」すらも……

さて、

目的 → 感情 → 行動

という形で、人の行動を過去に縛られない仕方で説明する「目的論」。

素敵な考え方なので、反論しない方がいい気もしますが(笑)、もしこれに対し反論するとしたら、どうしますか?

1つ、簡単な方法がありまして、

目的を作り出す行為そのものが、過去の出来事によって決定されている

と考えれば良いのです。

これは、「決定論」の立場から「目的論」への反論になります。

つまり、

両親から虐待を受けた(過去の出来事) → 「両親に心配をしてもらう」という目的の発生 → 不安 → 家に引きこもる

という形で、因果関係の起点を過去の出来事にしてしまえばOKです。

「もし虐待がなければ、両親に心配をしてもらう必要性が生じなかった」ということは、十分考えられますからね。

これに対して目的論の立場からは、

●●●
目的論者

でも、虐待を受けた人がみんな引きこもるわけではないから、決定論では説明できない

という反論が来ると思われます。

確かに、この反論は、的を得ているところがあります。

例えば、家に引きこもっている人がたまたまインターネットでアドラー心理学に出会って、そこから自分を変えるということがあるかもしれません。

ですが、上のようなケースすらも、

アドラー心理学に出会った(過去の出来事) → 自分を変えたいという目的が発生した → 不安という感情が消え去った → 家に出た

という形で、過去の原因で説明がつくことには、変わりありません。

決定論と目的論の分かれ目:「自由意志」ってある?

「決定論」と「目的論」は、どちらもおかしな考え方ではありません。

それなのに、どうして対立してしまうかというと、1つの点において前提条件が異なるからです。

すなわち、「人間の自由意志を認めるかどうか」という点です。

決定論 = 自由意志を認めない

目的論 = 自由意志を認める

目的論においては、<虐待を受けた → 引きこもった>の間に、環境や他人から一切影響を受けない本人の「選択」あるいは「意思決定」を仮定します。

それに対して、決定論では、<虐待を受けた → 引きこもった>の間に本人の意思の存在を認めません。

虐待を受けても引きこもる人とそうでない人がいることについては、虐待以外に環境や他人からどういう影響を受けたかによって決まると説明するのです。

感情の発生や行動に影響する出来事があまりにも多すぎるため、一見すると自由に決めているように思われるが、実際には無数の出来事から受けた刺激(に加えて、遺伝子レベルで決まっているその人のキャラクター)によってその人の行動は全て説明がつく。

「決定論」の立場からは、「目的論」に対してそう反論することができます。

まとめ:結局、どっちが正しいの?

今回は、『嫌われる勇気』の「目的論」に反論してみました!

最終的に論点としてあぶり出された「自由意志があるか否か」という問題は、現在哲学だけでなく脳科学などでも重要な論点となっています。

いまのところ結論が出ていないので、「自由意志の存在」についてどう考えるかはその人の自由です。

ここで、過去の哲学者がどう考えたかを勉強すると、自分なりの意見を持つにあたってのヒントが得られるかもしれません。

下の記事で、ドイツの有名な哲学者エマニュエル・カントによる自由意志の考察を紹介していますので、よかったらこちらも読んでみてください↓

人間に自由意志はある?カント哲学が出した答えとは?


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※アイキャッチ画像は管理人撮影

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